2011年08月03日

日露海戦懐旧談 (15)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   一五、「高砂」 の沈没

 本艦は十二月十二日午後六時、僚艦 「音羽」 と共に旅順沖を退き、夜間の地点に至り 「音羽」 と約十二浬をへだてゝ漂泊し、四直哨兵を配備して警戒に任じてゐた。

 当時僕は士官室の徒兵長であったので、哨兵勤務に服せず巡検後夜食の準備をとゝのへ、常直従兵を残して十時過寝についた。

 処が夜半突如として轟然たる爆聲は夜の寂を破り、烈しく艦は震動すると同時に少しく左舷に傾いた。 「あらッ ・・・・ 水雷にやられたな !」 と直感して釣床より飛び下りた。

 間もなく 「水雷に罷ったなー」 と呼ぶ者があった。 僕は下着其の儘にて上甲板にかけ上って見た。 時は十二時過ぐる真夜中で、電燈消した闇黒の裡に右に走り、左にかけ行き 「ドタソ、バタン」 の聲ものすごく、艦内は俄かに騒々しくなった。

 此の時、艦長、艦橋にありて 「防水閉鎖」 のラッパが聞えて来た。 僕は殊更心を落ちつけて上衣を着け、受持配置について働いた。

 続いて 「防水蓆出し方」 の号令がかゝり、各員必死となって之が当て方に努めたが艦の傾斜と少しく速力を出して前進して居るので、艦底索は容易に衝角を替らず、防水席は遂にぶら下げた儘其の位置に当てたが、破孔大にして吸払込まれ其の用をなさなかった。

 其の他手あきの者機関部に於ては左舷の石炭を右舷に移し、上中甲板に居るもの誰彼の区別なく左舷側応急弾台に備へた弾丸も、其の他の重量物は皆海中に投げ込み、極力艦体傾斜の防止に努めたかひもなく、次第に傾斜の度を増して三十度以上に及び殆ど救助の見込みはなくなった。

 やがて艦長は、前艦橋にあって大聲で上甲板の暗を破り、総員に対し悲壮極まる訓示をされた。 茲に、我等は唯運を天に任し、艦長の発聲にて天皇陛下の萬歳を三唱し、次で海軍及「高砂」の萬歳を唱へた。

 其の時、航海長小倉少佐は大聲を奉げ 「本艦の沈没する位置は大竹山島の東方十五浬、旅順を去る約三十浬の所である。 乗員の内若し生残った者あれば此の事を伝へて貰ひたい」 といはれ、稍暫くしてボートやーい ・・・・ と呼ぶ聲も何となく哀調を帯びて心細く今尚耳底に残ってゐる。

 其の時巳に第二カッター及通船一隻は卸されて居たがこれには負傷者及休業患者の如き働けない者ばかり乗艇せしめ、艦の後方遥に遠く押し流されて居たのであった。

 僕は乗艇配置はないので、艦長の訓示に従ひ、何か浮力のあるものはないかと考へて居たが、ふとメンジャー (注) に洗濯桶の格納してあるに気付き、甲板を這ひつゝ其の場所に行き大中小の三個の内、中のもの一個を引き出し、自分の受持五番八糎砲々門の所まで持って来て此処から飛び込む決心をした。


 そして附近の様子を闇にすかして見れば釣床を抱へたるもの、手箱を携へたるもの或はバケツ、板片など持って居る者多数集まった。

 中にも機雷爆発のため、両足ははとんど目茶々々になった負傷者に看護兵一名が附き添ひ、両手にバケツを結び付け 「之で大丈夫だ気を確に持て」 と云はれて居たのを見たときは、衷心気の毒でならなかった。
(続く)

(注) : 「メーンジャー」 については本家サイトの 『船体各部の名称及び構造一般』 をご参照下さい。



posted by 桜と錨 at 19:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)
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