2011年03月03日

安保清種の砲術 (1)

 前回は 「三笠」 砲術長として黄海海戦を戦った加藤寛治が、その海戦において、そしてその教訓を得た後においてどの様な砲術を採用していたのかを2つの文書を根拠としてお話ししました。

 結論としては当時の旧海軍では 「一斉打方を行ってない」 「できない」 と言うことなのです。

 しかし、中には “加藤寛治に替わった安保清種が日本海海戦において実施したのでは?” と思われる方もおられるかも知れません。

 これを主張する最先鋒の一人が遠藤昭氏なのですが ・・・・ これは本家サイトの 『砲術の話題あれこれ』 で途中までお話ししているとおり、その主張の理由が全く根拠のないもので、お酒の肴にもなりません。

 既にお話ししてきました様に、一斉打方を行うためには、それまでの 「三笠」 の装備・設備・施設は勿論、射撃指揮組織では適応出来ません。

 そして、もし仮にこれらが新たに整ったとしても、その為に乗員の訓練を一からやり直さなければなりません。 全く新しい手順に従って。

 考えても見て下さい。 明治38年2月13日付けで発令になり、3月10日に 「八雲」 砲術長から着任した安保清種に、5月27日の日本海海戦までにこれが出来たとお考えになるでしょうか?

 安保清種にとっては、「三笠」 砲術長としての新たな職務に習熟することが精一杯であり、そして前任者の加藤寛治のやり方をそのまま引き継いで、これの練度向上に努める以外に無かったであろうことは容易に想像がつくことです。 バルチック艦隊がいつ来てもおかしくなかったのですから。

 このこと一つを考えただけでも “絶対に不可能” であったと断言できます。


 それでは順を追って、これを証明していきたいと思います。

 まず最初は、上記のとおり、もしそれまでのやり方から新しい 「一斉打方」 に転換したとすると、3月10日の安保清種の着任以降 「三笠」 の砲術訓練でそれが行われていなければなりません。

  『三笠戦時日誌』 には日々の状況が詳細に記されています。 幸いにして今日ではこれは 「アジア歴史資料センター」 からネット上に公開されていますので、その38年2月分から5月分までを是非一度目を通してみて下さい。


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( 画像 : 防衛省防衛研究所所蔵史料から )

 これをお読みいただければお判りの様に、呉での修理・整備を終えて2月17日に佐世保に回航、同20日に佐世保を出港して翌21日鎮海湾に到着しましたが、それ以降、砲術長が替わったからと言っても砲術訓練には何ら大きな変化はなく、引き続き内筒砲射撃を中心としたそれまでの訓練を更に徹底して行っています。

 そしてこれらの訓練の節目になるのが、内筒砲対抗射撃です。 これは連合艦隊司令長官命により実施されるもので、2隻が組になりそれぞれが曳航する標的を相互に撃ち合い、成績を艦隊中に公表するものです。 3月以降日本海海戦までの間に3回行われています。

 これらにおける 「三笠」 の成績は次のとおりです。

回 次実 施 日対 勢射距離 (m)命中率 (総命中弾数/総発射弾数)
第1回3月28日並 航380 〜 68023.5%  (154/656)
反 航250 〜 720 6.4%  (71/1106)
第2回3月30日並 航390 〜 660 37.6%  (683/1814)
反 航370 〜 950  8.6%  (127/1470)
第3回4月 5日並 航360 〜 640 45.4%  (631/1390)
4月 6日反 航280 〜 55030.7%  (285/927)
4月 7日並 航250 〜 580 52.5%  (894/1703)

 回を追って成績は向上していますが、それでも 「三笠」 の成績は第1戦隊の他艦には及ばず、毎回その結果について艦長の叱咤激励の訓示が行われました。 勿論その中にも、打方や訓練方法を換えたから云々、などとは一言も出てきません。

 既にご説明ましたように、内筒砲射撃というものは砲術長・砲台長の射撃指揮法や射撃関係員のチームとしての訓練もありますが、その主体はあくまでも射手の照準発射の演練です。

 したがって、対抗射撃において良い成績を出すためには、各砲の射手それぞれが各自で照準の最も良いと判断した瞬間に引金を引くことです。 これはつまり 「独立発射」 であって、斉射のために発射時期を令される 「発令発射」 ではありません。

 当時の砲術としては、決定距離を得るための試射の一部で斉射を用いるかどうかは別にして、艦砲の命中率を高めるためには本射は 「独立発射」 が当然と考えられていました。 だからこそ 「急射」 「常射 (並射)」 「徐射」 という区分が教範で規定され、個々の砲はそれぞれの射手が自己の照準の最も良い瞬間を判断して発射することになっていたのです。

 そして射撃計算、即ち苗頭・照尺だけは出来るだけ艦で統一したものを使おうと努力していました。 ですからその命令・号令が確実に伝達されるように通信伝達訓練も合わせて行われていました。

 これを要するに、5月27日の日本海海戦において 「三笠」 の艦砲射撃のやり方は、先にご説明した加藤寛治の砲術そのままであったと言えます。
(この項続く)
posted by 桜と錨 at 17:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し
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