2011年02月11日

『運用漫談』 − (42)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その15

 「運用の妙は一誠に在り」とは船堂生の多年の主張である。 誠は自己に對しては反省となり努力と成りて表はれ、他に對しては愛と敬と成りて表はる。

 孔子は忠恕を説き釋尊は慈悲を説き、基督は愛を唱へ、モハメッドはコウランと剣を以て立つたが、四者各々其の詞を異にするも其の意は即ち我が誠にして、皇道の一端の現はれに外ならぬのである。

 誠の力、愛の力が統御上如何に大なるものであるかに就ては、第九項に於て既に略述した通りである。 愛の最も大なる現れは愛國であるが、吾人海軍軍人に取りては夫れが愛隊と成り、愛艦と成り保存手人と成る迄に至らぬばならぬが、口に愛國を唱へつゝ愛人愛艦の實行に及ぶもの、何と少なきを覚ゆるものあるは誠に遺憾とする處である。

 艦内の一切に對し自己の一身を愛する如くする事、否な自己全幅の愛を捧げて自艦に奉仕するのが艦乗 (ふなのり) の本分である。 毎朝の甲板洗方は艦船の顔を洗ふ事である、日課手人は艦船の身仕舞である、毎土曜日の大掃除は其の入浴である。 吾人は日常果して自己の顔を洗ひ身仕舞を爲し、又た入浴するが如く、日常作業に愛と誠を捧げて居るか。

 茲で一寸注意するが兎もすると一週間に一度も顔を洗ひ得ざる三等兵ある事に留意する事である。 蚊一疋に刺れても髪一本抜かれても疼痛を訴ふるが、ボルト一本折れ、スタンション一本曲りても、之を我身を切らるゝ如く痛感する乗員果して幾人あるか、自他共に大々的反省を要する次第である。

 誠の力は絶大である。 全身愛を集中して事に當らんか、所謂精神一到であつて事として成らざるなき筈である。 其の成らざるは畢竟愛の足らざる結果である。

 帝國々民全體が今一層國に奉仕する誠と愛があつたならば、華府會議も倫敦会議も今日とは餘程異つたものであり得て、従つて五・一五事件の如き不祥事も起らずに済んだであらうに。 否らずして事今日に及ぶ、之れ蓋し天の吾人の怠慢に對して下し給ふた天譴である。 上下共に大に慎み大に畏むべきの至りである。

 愛には敬が伴はねばならぬ、敬なき愛は溺愛にして痴情の愛に堕する虞れがある。 上は下を愛し下は上を敬せよと言うて、愛と敬とは階級に依つて違ふ如く説く人あるも、船堂生は否らず。 上下交々相愛し、相敬して始めて眞の愛が實現さるゝものであると信ずる。 夫婦間の愛、殊に然りである。

 艦船兵器の保存手入に於ても、愛と共に敬が伴はねばならぬ。 明治十年頃迄は敬神愛人の風一般に敦きものあり、農民の如きは田畑は勿論、鋤や鍬の如きも之を神として祭つたものである。

 然るに明治十五、六年頃より浅薄なる洋学流行し、外尊内卑利己享楽の悪風一般を風靡し、男女の痴情を以て愛の本體と考へ、敬の何たるを知らざるのみならず、敬を無視するを以て得意と考ふるに到り、延いて以て今日の天譴的最大國難を招来するに到つたのである。 深く戒まざるべけんやである。

 帝國軍艦には大神宮若くは其の艦名に因みたる色々の神様を勧請し来り、守護神として祭つて居る。 誠に結構であるが、毎朝其の守護神を禮拝するに當り、乗員は果して何を祈つて居るか。 自己の安全幸福のみを祈る不心得者は果して無いか、注意を要する。

 陛下の軍艦は吾人海軍々人の生命である。 一切である。 軍の守護神を祭るは即ち軍艦其のものを祭るのである。 軍艦其物は神である、大砲も水雷も機関も罐も一切神である。 是を保存し手入するは即ち神に對する奉仕であり、お祭りと心得べきである。

 座臥行住、神は常に吾人の前に在らせらるゝのであると知れば、茲に始めて眞の愛と敬とが表現され、完全なる保存手入が行はれ艦と乗員と共に一體と成り、神聖なる護國の神剣と成り、皇道扶翼の根幹と成るのである。 尊き哉保存手入作業哉である。
(続く)
posted by 桜と錨 at 13:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)
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