2011年02月08日

加藤寛治の砲術 (6)

 それでは、黄海海戦後の 「三笠」 において艦長がその戦闘要領を定めた 『三笠戦策』 (砲戦策) が実際にはどうなっていたか、です。

mikasa_sensaku_01.jpg

 ここでご紹介するのは、本家サイトやこのブログへもご来訪されるHN 「へたれ海軍史研究家」 さんが入手されたもので、同氏のご厚意によりコピーを頂いたものです。 氏にはここで改めてお礼申し上げます。

 ただこれの最も残念な点は、37年8月の黄海海戦における戦訓を受けてそれまでの戦策を改訂したものですが、その改訂日が記されておりませんので、黄海海戦以降、日本海海戦までの何時の時点のものなのかが不明な点です。

 しかしながら、幸いにしてこの文書の表紙に当時第1艦隊附であった福井義房少尉 (海兵31期) の名が記されていることから、その時期が判断できます。

 つまり、福井少尉は明治37年9月23日に少尉候補生として 「三笠」 に乗り組んでおり、翌38年1月12日に少尉に昇任、同日付で第1艦隊附になっております。 そして、2月13日付けで 「出雲」 乗組を命ぜられて同18日に 「三笠」 を退艦しています。

 したがって、この文書は明治38年1月12日から2月13日までの間に福井少尉が入手したことになり、そして少なくともこの時点ではこの文書が 「三笠」 の現用の戦策であったということが判ります。

 そして、砲術長の加藤寛治はその同じ2月13日付けで海軍省副官兼大臣秘書官に補職替えとなって同15日に 「三笠」 を退艦、後任に同期の安保C種 (海兵18期) 少佐が 「八雲」 砲術長から補職替えとなり3月10日に 「三笠」 に着任しておりますから、この文書は安保C種へ申し継いだ加藤寛治の砲術の集大成でもあったことになります。

 何故なら、本戦策は当然のことながら、一艦の戦闘指揮官であり砲戦指揮官である艦長名で出されていることは言うまでもありませんが、艦長の伊地知彦治郎大佐 (海兵7期) は元々が水雷畑出身であり、ナンバー2の副長は38年1月7日付けで交代し、前任の秀島七三郎中佐 (13期) は水雷屋、後任の松村龍雄中佐 (海兵14期) は航海屋であることから、本戦策の策定に当たっては砲術長加藤寛治の意見がほぼ全面的に反映されていることは確かだからです。

 それでは、加藤寛治の砲術について、2つ目の根拠文書である 『三笠戦策』 の全文を頭から順にご紹介していくことにします。

  戦策 (八月十日海戦に鑑み増補改正す)
                      三笠艦長 伊地知彦次郎

 艦長は緒戦に於て能く其の指揮を掌握するを得ると雖も砲火一度開始せんが戦闘の変化は極まりなく種々の状態を現出すると共に混乱蝟集し往々是れが容易ならざる者あるを信ず 依て本職は茲に本職の採らんとする戦闘法を示し且つ戦闘の際下す可き号令命令等を成る可く簡単明瞭ならしめんと欲す

 本職は向後の戦闘を予想すると共に現長官の意志を考察するに最近五千内外の距離に在て交戦するを主とせらるるを相察し一意砲熕の力に信頼して勝敗を決せんとし水雷を以て第二に置き機宜に依り之を使用せんとす 本職は六尹砲を各砲種の基本とし終始是れが指揮を艦橋に掌握すると雖も其他は各部の長の技能に信頼し以て十全なる効果を発揚せん事を期す

 まず書き出しは、この戦策の策定目的と全般方針です。

 ここで注意していただきたいのは、「6インチ砲を各種砲の基本とし」 と言っておりますが、これは主砲よりも6インチ砲の方を重視することを意味するものではない、と言うことです。

 つまり、既にご説明してきました様に、各砲台長による射撃指揮を基本としていた当時の砲術にあって、艦長・砲術長が艦橋において一艦の全砲火を指揮するためには6インチ砲を基本に据えるのが最も簡単で都合がよい、ということなのです。

 即ち、複雑で面倒な主砲のことはその砲台長に任せておけばよい、ということで、決して主砲たる12インチ砲の能力・威力そのものを軽視したものではありません。 これは間違えない様にしてください。
(この項続く)
posted by 桜と錨 at 13:16| Comment(4) | TrackBack(0) | 砲術の話し
この記事へのコメント
 桜と錨様

 ご多忙中にも関わらず、僕の所蔵している史料の解説をしていただきありがとうございます。やっとこの史料が世に出て役に立ったとほっと胸をなで下ろしております。この史料を残してくれた方達の思いにこたえることができたと安堵もしております。今後の解説、楽しみにしております。
Posted by へたれ海軍史研究家 at 2011年02月11日 21:52
へたれ海軍史研究家さん

この 『三笠戦策』 は、先の加藤寛治の黄海海戦戦訓史料と安保C種の日本海海戦における砲術との丁度橋渡しのものであり、その意味で大変貴重なものです。

史料というのは活用されて始めてその価値が活きるものと考えます。 本史料もコレクターの手によって死蔵されてしまうことなく、貴殿のお陰でこうして日の目を見ることができました。 これは貴殿のお手柄ですね。
Posted by 桜と錨 at 2011年02月12日 00:30
(些事ですが折角の決定版資料なので)
「三笠戦策」の表紙のお名前は、「福島」ではなく「福井」の様に
見受けられます。
造船畑の大家が連想され、深層の抑制も無理からぬ処か。
Posted by wolfram at 2011年03月02日 23:07
 おっと。 見えるのではなく、そのとおりですね。 早速訂正しておきました。 ありがとうございました。 う〜ん、思い込みは ・・・ (^_^;
Posted by 桜と錨 at 2011年03月03日 00:06
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