2011年01月31日

『運用漫談』 − (36)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13 (承前)

 震災後自分は能く逗子鎌倉方面の友人等の家庭を訪問した。 訪問する時は大抵堅麺麭一袋をお土産にしたものである。

 或る時友人の處に行くと、毎々堅麺麭は有難いが、町にも家にも野菜が絶無で閉口だと言ふ。 成る程、町の八百屋は未だ開いて無い。 友人の家には、二十歳を頭に十八、九の三人の男子が居るから、五十銭持つて一寸郊外に行け、農民の畠には買手と運搬者が無い爲め、瓜や茄子が腐りつゝある。 彼れを買つて来れと言ふた處が、三人の男は飛んで行つたが百姓も大悦びで、僅か五十銭で野菜をどつさり背負うて歸つて来た。

 震災に驚いて買ふ町人も賣る農民も、こゝに気が附かないのである。 此の様な間の抜けた談はえて有勝ちである。 地震は火事や洪水では無い。 家は倒れても田野には米も實りつゝ有れば野菜も在る。 泡を喰ふのが悪いのである。


 大地震中の出来事で朝鮮人問題ほど馬鹿々々しい問題は無い。 朝鮮人問題で田浦方面が噪ぎ出したのは九月二日の夜からである。 三日の朝には市民は竹槍や脇差抔を持ち出し、戦々兢々として連りに朝鮮人襲来を唱へる。 馬鹿な事を言ふ勿れ、と言うても聞かない。 各戒厳所で喇叭吹奏行軍を行つたが、之は人心鎮撫上非常に効果があつた。

 田浦トンネルの傍らの山間に、當時の鐵道復線工事に従事して居た朝鮮人夫數十名の居住するバラックが在つたが、水雷学校より人を遣はし、堅く外出を禁じ、糧食等は学校より送る事と爲し、之が保護に當りしが、彼等も克く命に服したる爲め幸に事なきを得たが、怯怖に堕せる彼等が若し市中に逃げ出さんか、如何なる惨事を仕出かしたかも知れないので、余は大に當直将校の機敏を感謝したのである。

 追濱飛行隊にて千葉方面より逃げ乗れる漁夫を見て、朝鮮人来襲と誤認したるものあり、船橋無線電信所にても朝鮮人来に驚かされてSOSを打電したる當直将校あり、流言蜚語百出し、世間一般が恐慌に襲はれ居たりとは言へ、誠に情け無き話である。

 余は日露戦前、朝鮮警備の任務に當りたる事がある。 日本漁夫と朝鮮住民との闘争事件屡々起りしが、原因の多くは、日本漁夫の横暴にある、依つて之を戒めたるに日く、何に朝鮮人十人位なれば日本人一人で澤山であると威張つて居た。 軍隊を率ゐる将校にして、其の気魄一漁夫にも如かざるものありと思へば残念である。

 朝鮮人来襲に関する流言蜚語絶えず人心を刺戟し、行人皆な兇器を携帯し居り、中には不逞の徒無きにしも非ずとの事たりしを以て、九月五日命令を發して一切の兇器と竹槍の携帯を禁止したるに、其の効果顕著にして忽ちにして人心の安心を得たのである。

 朝鮮人問題は文明國日本の一大汚辱なりとて、大に日本人を罵倒する日本人が居るが、桑港震災後の無政府状態や、其の後支那某地に起りたる震災其の後の奪掠と虐殺の情態等に比すれば、其の惨害は實に雲泥の差がある。

 日本人なればこそ彼の大震災に際しても、彼の如き立派なる相互扶助、秩序維持を得たのである。 米國大使ウッド氏をして讃嘆措く能はざらしめたのは無理はない。 それを知らすして此の一朝鮮人事件を以て、日本を野蛮國なり到底欧米先進國に及ばすと叫び廻はる外尊内卑の非日本人がある。 叱り遣く次第である。
(続く)
posted by 桜と錨 at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)
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