ただし、本項をお読みいただくためには、既に連載してまいりました 『別宮暖朗本のウソと誤り』 の 「カテゴリー:砲術の話し」 に掲げるすべての項をご理解いただいていることが前提です。
皆さんご承知のとおり、加藤寛治は 「三笠」 砲術長として明治37年3月から38年2月まで在任しております。
もう少し詳しく書きますと、37年3月5日付で開戦時に砲術長であった和田幸次郎少佐 (海兵17期) は 「朝日」 砲術長へ転出し、相互交代の形で同日付 「朝日」 砲術長の加藤寛治少佐 (海兵18期) が 「三笠」 砲術長へ補職替えで、共に3月8日に離着任しました。
この交代の理由については不明でが、加藤寛治の 「朝日」 砲術長補職 (正確には少佐昇任直前の大尉ですので砲術長心得) が36年7月7日ですので、僅か8ヶ月で、しかも開戦直後に連合艦隊旗艦砲術長へ横滑りですから、大抜擢と言えばそのとおりです。
そして、加藤寛治は37年8月10日の黄海海戦に参加し、その時の経験から砲術についての戦訓を残しています。 これが今回最初にご紹介する 『八月十日の海戦に於て砲火の指揮に関し得たる実験要領』 です。

( 同文書の1頁目 )
この文書は、同海戦における 「三笠戦闘詳報」 (三十七年八月十日日露艦隊海戦第三回詳報) 中の射撃に関する事項中心にして改めて纏め直したもので、連合艦隊司令部に提出され、そしてその後東郷長官より全軍に対して紹介されたとされています。
ただし、加藤寛治が実際に何時書き上げたものなのか、正確な日付は不明です。 「三笠機密第205号」 として連合艦隊司令部に提出されており、全軍へは9月1日の 『聯隊告示第126号』 と共に配布されたか、あるいは9月27日の 「黄海海戦及び蔚山沖海戦における戦闘参考」 (聯隊機密第1134号) に基づく追加として配布されたかの何れかと推測されます。
書かれている内容は、前半にその教訓事項が列挙され、後半がその教訓に基づき今後の 「三笠」 の砲戦要領 (砲戦策) の一案を具申しています。
それでは本文書に基づき、内容ごとに纏めてご紹介します。
(注) : 各項目の順序は、説明の都合上幾つかを同種項目に集め直しましたので、原典のものとは多少異なりますことをお断りします。
八月十日の海戦に於て砲火の指揮に関し得たる実験要領 加藤三笠砲術長提出 一、弾着点の識別は最も困難なり 砲郭の如き低位置より観測は殆んど不可能に属す 此が為め最良の位置は前上檣楼とす |
加藤寛治の書き出しの第1項目が弾着観測についてです。 元々開戦前から 「三笠」 では弾着観測として檣楼上に将校及び候補生などを配置しており、開戦直後の旅順港への間接射撃などの際には、ここからの観測が活用されました。
その一方で、海戦では当時の砲戦距離の予想が6千メートル以内でしたので、この檣楼上の配置は艦橋又は司令塔に位置する砲術長の補助的な役割と考えられておりました。
しかし、黄海海戦ではその6千メートルを上回る射距離で砲戦が開始されたことから、当然の帰結と言えばそのとおりと言えます。
そして、射弾の修正についても、従来は各砲台長がこれを行うこととなっていましたが、その様なバラバラでの実施ではなく、最も正確な弾着観測が可能な所での観測結果を共通して使用することが適当とされました。
これがこの後に出てくる射距離の問題にも繋がるわけです。
問題は、この弾着観測についてが本文書の第1項目目であって、射法に関するものではないということです。 もし明治36年に全面改訂された 『海軍艦砲操式』 の規定、というよりそれまでの旧海軍の砲術と大きく異なることを実施したのであれば、先ずそれが第1項に来なければなりません。
ということは、射法に関することについてはそれから大きく外れてはいない、即ち射撃指揮法として 「一斉打方」 や 「交互打方」 による斉射はやっていないと言うことを意味します。
(この項続く)