2011年01月30日

『運用漫談』 − (35)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13 (承前)

 鎌倉から田浦に馳せ著ける際、苦がき経験を自から嘗めたると、晝夜を別たず右往左往する老若の避難民及び救護者等の苦心を見、道路整理の急務なるを感じ、在校兵員を中心とし一般市民を督促し、各部落の破損道路の修理復舊に努力せしめたが、三日にして鎌倉より沼津間水道トンネル入口迄、次で葉山迄自動車を運轉せしめることが出来るやうになつた。

 然るに自動車運轉手が、自宅破損の爲め出業を肯んぜざりしかば、運轉手自宅は水兵若くは郷黨にて修理せしむる事とし、半ば強いて出業せしめたるに、間も無くガソリンの缺乏を訴へて来た。 依つてガソリンは海軍より補給する事としたるに、次には運賃を暴騰せしめたるによつて、直ちに令を發して各區の運賃を一定して再び暴利を貧る能はざらしめた。

 何ほ又た徒歩交通者の絡繹織るが如くなるや、到るところ路傍に牛乳を鬻ぐもの續出せしが、之れ亦た暴利を貪るものありし故、一瓶十銭と一定せしめた。

 一瞬にして一切を廃滅に歸せられ、狼狽と恐怖のどん底に堕ちた民心をば、第一に脅やかすものは糧食の缺乏である。

 九月二日鎮守府に到り、民心安定の爲め一日も早く糧食庫を開くの急務なるを説きたるに、経理部當局は稍々難色ありしが、自分は学校に還へり調査せしめたるに、生糧品は僅々一両日分なりしも、貯蔵糧食は約五日分ありしかば、直ちに倉庫を開いて堅麺麭及び米麦の袋入りを取り出し、之れを水兵に擔がしめ、田浦逗子鎌倉葉山方面を歩き廻はらしめたるに、海軍より糧食来るの聲は忽ちにして一般市民の不安を一掃するに足るものがあつた。 爲めに水雷学校の倉庫は空虚となり、一寸不安を感じたるも、間もなく鎮守府の倉庫開かれ安心したり。

 地震の地域は案外狭少なるものである、救援の手は立ち所に到るものである。 然して狼狽せる民心の安定は、一刻の遅延を許るさない。 徒らに杞憂に堕するは取らざる處である。 之れ亦た平常より留意を要する點である。

 糧食不足の聲は忽ちにして米穀商人の米穀隠蔽と成り、暴利と成るものである。 戒厳中、其々商店は多量の米穀を隠蔽し居れりとの密告は屡々来た。 依つて衛兵を派して倉庫點検を行はしめたるに、銃剣の前には如何なる暴利商人も、忽ちにして蒼くなるのみであるので、間もなく一人の暴利商をも見ざる様に成つた。

 戒厳指揮官としては殆んど生殺與奪の實権を有して居る。 之を乱用するは沙汰の限りなるも、之を善用せば天下は太平極楽である。 善政的専政政治を思ふや切なるものがある。

 東京大地震の報は天下の耳目を聳動せしめた。 東京糧食缺乏の聲は、天下を患へしめ、救援の手は八方より東京に注がれたが、一切の陸上交通設備は杜絶せられた爲め、海上より輸送が唯一の頼みと成り、而かも其の第一著は海軍艦船に依るのが當然である。

 然して海軍艦船の東京入港の報が如何に人心に安定を與ふるかを考ふる時、其の入港は一瞬一刻を争ふものがある。

 然るに常時某巡洋艦は、某地より救護糧食を満載し来りしが、艦長が夜間東京湾進入に不安を感じ、湾外に一夜を空費して翌日入港したとの噂を聞いた。 不慣なる艦長の技倆不足は兎も角、船乗りとして事の本末を解せざる不覚者なりとの誹りは到底免るべくもない。

 海軍々人たるもの、艦船運用の術に就き平素より留意すべき要ある事は、斯様な時に備ふる爲めである。 名士連の留意を望む次第である。
(続く)
posted by 桜と錨 at 12:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)
この記事へのコメント
関東大震災と阪神大震災、二つの震災がだぶって見えます。
そして「運用漫談」のくだりと桜と錨様の書き込まれた「16年前のあの日」も。

「海軍さん(海上自衛隊)、ありがとう」と心から感謝した方も大勢いらっしゃったでしょう。

私も国民の一人として感謝します。そして私はそのような海軍と海上自衛隊が好きです。
Posted by 出沼ひさし at 2011年01月30日 20:44
 出沼ひさしさん、ありがとうございます。

 現在の海上自衛隊、現場はまだまだ捨てたものではありません。 良いところですし、皆一生懸命にやっています。 私も30余年この世界に身を置いたことを誇りに思っています。

 ただ問題は、お役所として、また組織そのものとしての方なんですが・・・・

 阪神淡路大震災での海上自衛隊災害派遣部隊司令部の作戦幕僚としての経験は、その内纏めてご紹介する機会もあるかと思います。 エピソードも含め、皆さんにお話ししたいことは沢山ありますので。
Posted by 桜と錨 at 2011年01月31日 14:14
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