2011年01月29日

『運用漫談』 − (34)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13 (承前)

 学校に著いて見ると非常呼集が命ぜられて居る。 鎮守府竝に其の他との電信電話は総て破壊されて用を成さず、只だ一の連絡は愛宕山の信號所を経てする手旗信號あるのみだが、之れ迚も電話線なき爲め不便極まるものであつた。 長浦掘割も山崩れの爲め閉塞せられ、汽艇は第三區を迂回するので、鎮守府に行くのは半日仕事である。

 船堂生故茲に於て大に考へさせられた。 地震である。 餘震は頻々として来り、一切は恐怖と不安である。 然かし戦争では無い。 此の際一刻も早く人心の安定を計り、應急善後の處置を講ずるのが何よりも先きである。

 而して其の第一著は全市民の家庭の安堵よりせねばならぬが、家庭を最も安心せしめ最も能く保護するもの一家の主人に如くものは無い。 非常呼集中たりしも、當地附近に家族を有するものと横須賀附近 (東京府神奈川縣竝に近縣) 出身のものには、此際自宅に歸らしむるが上分別であると考へ、各自三晝夜の歸省を許るす事とし、其の他の者は水雷学校に在りて一切の警戒と救護作業に従事する事とした。

 次で戒厳令發布さるゝや、水雷学校は防備隊と共に田浦逗子鎌倉三崎方面の戒厳を受持つ事と成つたので、各地に戒厳事務所を設けたが、各事務所の監督士官は各々其地在住の士官を以て之に當てたるに、全焼の爲め軍服を有せず、浴衣掛けにて當直すると言ふ具合にて、稍や不規律に見えしも、各自在住地の事とて土地を知り、人を知り居り、且つ親切之れに伴ふものありし故、萬事圓満に行はれ、諸作業意の如く運び、大に一般住民の感謝を博し得たのである。

 戒厳本部として学校では、幹部職員と家族を有せざりし教官と、田浦在住者が當直に當らせる事とし、他鎮守府所属の練習生多数を使役し、萬般の業務に當りたるが、之れ又た極めて圓滑に行はれたのである。

 震災直後最も痛切に感じたものは、通信連絡と交通路の復舊である。 通信連絡に就ては、鎮守府建築科に就き相談したるも、地震の爲め工夫意の如く出勤せず、何日になれば復舊出来るや不明なりと言ふので、電信線路に精通する技手一名を借り来り、水雷学校の電信兵を使用し、二日間にして鎮守府より軍需部を経て、水雷学校、造兵部、防備隊迄の電話線の假修理を終へ、更に追濱飛行隊に延ばし、一方は逗子鎌倉等の戒厳事務所との連絡を完ふする事を得た。

 又た九月二日なりしと思ふが、横須賀附近在住の士官にして艦隊勤務中のものに對し、當時判明し得たる家庭の安否を無線電信により打電したるに、之が艦隊としては、横須賀方面より得たる確實なる第一信なりし迚、其の後艦隊勤務者より深甚なる感謝を受けたのである。

 震災の如き事變に際し、無線電信の利用は最も有効にして、昭和二年の奥丹震災の際も、第九駆逐隊の無線電信が何よりも効果を挙げた。 狼狽は禁物である。 平常より注意すべき事である。
(続く)
posted by 桜と錨 at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)
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