2011年01月28日

『運用漫談』 − (33)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13

 大地震當日、即ち大正十二年九月一日船堂生は、午前八時半鎌倉著の列車で家族と家財道具一切を引具し、七年間住み慣れた須磨より鎌倉に移轉したのである。

 昔時船堂生は横須賀水雷学校に勤務して居たが、暑中休暇中須磨に歸省し居たるに、會々淡路の芦屋沖で潜水艦七〇號が沈没したので、共の査問委員を命せられ、調査上豫定より一日後れて鎌倉に入つたのである。

 豫て借家の世話を頼み置きたる友人宅に一先づ落著き、午前十時頃友人と共に新借家へ出掛けたが、借家は扇谷の一番奥の山腹に在る文化住宅であつたが、基が近くて淋しいと言ふので、第二、第三候補住宅を見聞に出掛け、第三候補住宅の二階で大地震に出會はしたのである。

 大に驚かされて飛出して見ると、鶏小屋に犬が飛び込んだ様な阿鼻叫喚の聲が四隣を満たして居る。 共の聲は鶏の聲に非ずして、救ひを求むる人の聲であつた。

 顔に負傷して血を浴びた女中が、阿嬢様が此處に下敷になつてゐるから助けて呉れと言ふので、案内役の友人と共に助けんとしたが大きな瓦屋根が押冠ぶさつて居るので、二人位の力ではどうする事も出来ない。

 附近を顧みれば一切の破滅である。 御互の家族も、どう成つてゐるか知れぬので、友人と分れて自宅に馳著けて見ると、自宅は一枚岩上の文化住宅で、極めて軽く出来て居るので家は安全であり、家族は友人の妻君と共に庭前の杉林の中に避難中である。

 直に友人の妻君を歸らしめ振向ひて鎌倉町を見下ろすと、火災の煤煙が數ケ所に燃え上り物凄き光景を呈して居る。

 當日は水雷学校の休暇明けの日であつて出勤すべき筈であつたが、土曜日であるし、前述の都合も有つたのでサボつて居たのであるが、コリヤ大變と言ふので急ぎ軍服を着けて、晝食も取る間も無く水雷学校に向け走つたのである。

 潜水艦事件の爲め豫定が後れて此の不覚を取つたが、若し豫定通り前日に著いて居たれば、第二候補住宅に這入て居たに違ひない。

 第二住宅は第一震で微塵に倒潰したが、第一住宅は何等の損害無く鎌倉中で損害最も少き住宅で有つた爲め、家族も無事なりしのみならず、忽ちにして友人の避難所と成り、一時は五家族も同棲して居たが、之が爲め自分は全く安心して活動が出来たと思ふと、運命の數奇を感ぜざるを得ないのである。

 鎌倉より水雷学校迄は約三里である。 倒壊と火災の中に狼狽して馳せ廻はる老弱男女の顔を見ると、何だか世紀末の光景を想はしむるものがあつた。

 前友人の住宅は恰も途中に在つたが全潰である。 只一人の愛嬢は病臥中で家根の下敷と成つたけれど、屋根を破つて今救ひだした處であると言ふ。 相互の無事を祝しつゝ相分れて学校に向つて走つた。

 鐵道のトンネルは、皆な山崩れの爲め入口が潰れて居たが、田浦逗子間の海軍水道トンネルは、煉瓦巻きは施して無いが通行が出来るので走り込んで見ると、途中で餘震の爲めに土塊がバラバラ落ちる、道は暗い、落ちた土塊に躓き轉倒する、と言ふ有様で、漸くにして水雷学校に辿り着いたのが午後三時である。

 博忠王殿下を始め奉り、一同無事で練兵場に集り居たるを見て、初めてホット胸撫で下ろしたのである。

 四囲の光景は破滅であり、崩壊である、地獄の相である。

 長浦湾口の重油庫の火災は、黒煙濛々天に冲し、千米突餘の空中に龍舌の如き火焔を吐いてゐる。 裂けたる重油タンクより海を掩うて流れ出でたる重油に點火し、海上一面は火の海と成り、夫れが南西より強く吹く二百十日の強風に壓流せられ、沖へ々々と進んで行く。

 第三區には修理中の榛名が繋留して居るが、其の運命や如何を気遣はれしも、火の海は榛名を避けて千葉沖に流れ去つた。 當時幸にして風が陸方面より吹きたる爲め、一應は安心であつたが、風向一變せんか、長浦一帯は忽ちにして焦土と化する恐があるので、一寸警戒を緩める事も出来ざりしが、幸に其の事なかりしは又た好運の一であつた。

 横須賀方面は大火災を起し炎々天を焦がしつゝある。 東京は如何と見ると一切の通信絶え、天に跨る大入道雲が其の大火災を偲ばしむるものがある。 東京全滅、大阪大火災抔の流言蜚語は刻々に飛ぶのみである。 當時の光景は到底筆紙の盡くす能はざる處である。 讀者の想像を俟つ外はない。
(続く)
posted by 桜と錨 at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)
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