2011年01月07日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (98)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 空襲は激化し、戦機刻々と迫まる (承前)

 27日敵はアンへレスを占領、マニラまで後80キロと迫った。 29日マニラ湾口に敵南下主力部隊とは別の部隊3万が上陸、続いて30日にはナスグブに上陸、31日の夜9時、米戦闘車両約100はマニラ街道に入り快速南下し、2月3日これら敵先遣部隊はついにマニラ市北部に到達した。

 同日午後戦車30を先頭に装甲車約100の敵は一挙にマニラ市内に突入、直ちに敵国捕虜収容所 「サントトーマス大学」 に突入奪取、またゲリラ部隊の蜂起行動も市内の各所に挙がった。

 いよいよ2月6日マニラ市内では日米両軍の壮絶な市街戦が展開され、両軍の死闘が市内各所で繰り返された。 日本軍側にあっては “マニラ防衛” に関する作戦計画段階で陸海軍間の意志が二つに分かれ、結局は海軍の陸上部隊のみによってマニラの防衛に当たることになる。

 かくして海軍陸戦隊は強敵とよく善戦したが、いかにせん物量による敵の攻撃の前には全く問題とならなかった。 かつまた敵軍を前にして抗戦中、背後からゲリラの伏兵に襲撃されるなど悪戦苦闘の連続であり、勇敢なる兵士たちは最後の一兵になるまでと念じ徹底抗戦を続けたが、しかし奮闘の甲斐なく全員戦死に近い敗北となった。

 一方、コレヒドール島は1月10日、20日及び23日と敵の空襲があった。 この時既に空を飛ぶ飛行機は青い星のマークの米軍機ばかりとなり、特に23日B−24 10機による爆撃のため第4号海軍トンネルの弾薬が誘発、大爆発を起こし各砲弾、装薬5,519発を一度に焼失してしまった。

 24日は戦爆連合の百数十機が飛来、26日も5〜60機と続いて飛来した。 このようにして米軍側はコレヒドール要塞を上陸前に徹底的に叩かんものと空襲は日増しに激しくなるばかりであった。

 在コレヒドール島日本軍将兵にも、いよいよこの島へも敵の上陸作戦が展開されるのではないかという感が高まってきた。

 敵機は地上の施設、兵舎はもちろんのこと道路に至るまで徹底過ぎるほどの銃爆撃を行い破壊していった。 これまでの銃爆撃で兵舎4棟は完全に吹っ飛び、震洋艇25隻、そのほか高角砲、機銃砲台などの陣地にも相当の被害が出た。

 見るも無惨、爆撃によって吹っ飛ばされた兵舎、残されたものはただコンクリートの土台石だけ。 丘の岩膚さえもギザギザの鋸歯状に変わってしまった。 敵機の爆撃の正確さを思う存分昧わされる結果となった。

 敵艦載機はあたかも 「あぶ」 の如く払えども払えども逃げないという形容のとおりであった。 1人の日本兵士を見付けるや、どこどこまでも上空を旋回しながら追っ掛け回した。 そうして見失うや、見失った場所をさも掘り返しでもするように繰り返し銃撃し、そんなにまでと言いたくなるほど執拗でまた念の入った攻撃振りであった。

 平和時、樹木の鬱蒼と茂った島影も今では完全にその姿を変え、新生小火山を思わす容貌となった。 こうした敵機の攻撃は、日本軍兵士はもとより地上のあらゆるものに対し虱潰しという表現そのままであった。

 24日の空襲が起因してか、28日島内トンネルの中の火薬庫で火薬類が引火、大爆発となった。 そして陸軍が使用していた桜トンネル以外の全トンネルの入口が埋没、また約300名の兵士を失った。

 米空軍側の発表によれば、1月下旬から約10日間コレヒドール島に投下した爆弾は一平方マイルにつき3,000トンであった。 これは、これまで米軍の南西太平洋各戦線の中での最大密度の爆弾投下量であったといわれる。

 かくして島の地上に存在するもの立木、道路、建物、電柱、そして旗竿とことごとくが粉砕され、もはや我々日本軍兵士は地上に住むことすらできずトンネル内に退避せざるを得なくなった。 それでもなお敵機の攻撃は続き、地下数十メートルの壕内にいてもその物凄さを直接身体に感じ取ることができた。
(続く)
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