2011年01月02日

『運用漫談』 − (15)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その7

 艦隊列中に於ける艦位保持法は測距器具の完備し、測距技術の向上せる今日、之を日露戦役以前の六分儀若くは目測に依る外、何等の依るべきもの無かりし昔に比較するときは、其の難易全く霄壌の差がある。

 従って昔日の苦心談をしても、今日格別の役にも立つまいと思はれるけれども、謂ふ所の船乗眼なるものは機械萬能の今日と雖も、千變萬化の稱ある海上に於ける各種の操艦術より、延いては指揮統帥其の他萬般に亙り、依然として其の重要性を有するを以て、つまらぬ昔話と雖も、運用術の心理的原則研究の資とするに足ると思考さるゝので、敢て逸人の経験談を試みることゝする。


 逸人が三等艇 (注1) の艇長心得 (注2) を拝命したのは中尉の晩年であった。 時の司令其中佐は仲々八釜し屋であつたが、距離を詰めて居れば御機嫌が良かつた。 それに距離を詰めて居れば、目測が比較的精確で、位置の保持も容易であつたから、自分は常に前續艦との水面距離を十五米に保つことに定めて居つた。

 當時の三等艇にはテレグラフ (注3) は無い、無論回轉指示器等も無い。 艇長の立つて居るカンニングタワー (注4) と機械室との通信は唯一本の傳聲管のみであつたが、それで萬般の要務を辨じたもので、面白い事には、罐前よりカンニングタワー迄スチームパイプを導き、其れに壓力計 (マノメーター) を附してあつたから、艇長は何時でも汽罐の汽醸状態を知ることが出来た。

 艇長に赴任して初めて艇隊で出動した時の事である。 艦隊運動が始まつたものだから、艦位に注意して居ると、他の艇は位置を八釜しく言はるゝのに、自分の艇は少しも小言を喰はない。

 旨いわいと自惚れつゝ、一寸後方を見ると、乗組機関兵曹長が、(田中と云ひ、文字の無き男なれども、實地に掛けては抜群の誉れがあった。 之れが機関長である。) 機関室入口のハッチに腰を掛け、掌を上下して、何か機関室に合圖をしてゐる。 何事かと思つて聞いて見ると、機関長から距離を目測して、機械の回轉を増減しつゝあり、何も艇長を煩はす要がないのである。 自分は開いた口が塞がらなかつた。


 常時艇長として何に依つて艦位を保持したかと云ふことに就き、測器に依つてやることは誰しもやることであるから之を説かないことゝし、其の他に就て愚見を述べる。

 元来艦位の保持は機械の回轉の正確に在る。 而して固轉の正確は汽醸状態の正確にして不變なるに在るから、罐前の汽醸軍規の如何は直ちに艦位の正否に影響する。 従つて何よりも汽醸状態を知ることが大事である。

 前きに述べたる如く、カンニングタワーに汽壓計があつて、自艦の罐前の状況が明かであるから、之に對して機関部に注意すると、一度定めた回轉數はそんなに變へるに及ばない。 前續艦との距離も、距離を測るよりも共の汽醸状態に注意することが必要である。

 而して其の汽醸状態を知るには烟突から出る煤烟の状況で能く判る。 黒く濃い煤烟を出すときは、前續艦の蒸汽が下らんとする前兆であるから、自分も回轉を減らすことを考へる。 之れに反して前艦が煙を出さずに徐かに陽炎を吐いてゐるときは、其の汽醸状態が極めて良好なることを示してゐるから、斯様なときは自分の回轉を増すことに留意せねばならぬ。 此の事は前續艦の總てに對しても、此の留意を要するのみならず、後續艦に就ても亦然りである。
(続く)

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(注1) : 三等水雷艇のこと。 当時は20トン以上70トン未満のもの。


(注2) : 当時水雷艇の艇長は内令定員として少佐又は大尉と規定されていました。 したがって人事補職上一階級下位のものがその職に就く場合は 「心得」 として発令されました。 当然その職にある間に進級すれば 「心得」 は外れます。


(注3) : Telegraph、通信器  単に 「テレグラフ」 と言った場合は、通常は 「速力通信器」 のことを指します。


(注4) : Conning Tower、司令塔



posted by 桜と錨 at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)
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