2010年12月31日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (92)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 独り病院に送られて (承前)

 今ではマニラ地区も完全に制空権を取られており、朝早くから敵機の定期便 (空襲) であろう爆音が聞こえる。 ミンドロ島辺りの航空基地を、はや敵側は使い始めたのであろう。

 爆音に追っ掛けられるように 「空襲警報」 のサイレンがうなり出す。 私がこの病院に入院したころは、警報が出ると、歩ける (比較的元気のある) 患者が看護員を手伝って、私たちのような寝たきりの患者を、それぞれが寝ているベッドの下に移し、それから銘々は安全な場所へ避退するといった状態であったが、今では空襲の回数も増し、避退する者たちにも余裕がなくなったのか、寝たきりの患者はベッドの上に置き去りにされたままになった。

 ドドン、ドドーンと爆弾か高射砲の音か、それは私には分からないが大きな炸裂音が聞こえてくる。 私自身、身動きすらできない無抵抗の状態に置かれ、今ではどうにでもなれという捨てばち的な考えにならざるを得なかった。 どうわめこうと叫ぼうと、今更どうなるわけでもなかった。 ただ成り行きに任せるのみ。

 そのうえ自分の寝ている真上に、大きく豪華なシャンデリヤが下がり、数多くのガラス玉は鋭利な刃物のどとく不気味な色に輝きながら、私を狙っていた。 全く俎上の鯉とはこのことか。 この第103海軍病院は元フィリピンの女子大学であったとか。

 今の自分にできることといえば、尿意を催したくなったとき、ベッドの上まで溲瓶を吊り上げる作業がやっとであり、それ以外にできる動作は、食事のときに食器から口まで食べ物を運ぶ手と、上下左右に回せる目の玉だけであった。

 一刻も早く歩けるようになりたい、そして皆のいるコレヒドールに戻ることを願うだけだ。

 12月25日といえばクリスマスである。 この日マニラを出る貨物船があり、急にこの病院に収容中の重傷患者に内地送還が言い渡され、早速送還準備が始められたが、間もなく今回は貨物船ということもあって、重傷患者を乗せるということが一転し軽傷患者に変更され、歩ける者という条件が付けられた。

 結局この度の患者輸送に関しては、直接私には何の関係もないこととなったが、こうしためまぐるしい動きには、痛めつけられている自分の頭は、うまく回転せず、ついて行けなかった。

 後日、この貨物船はマニラ港を出港して間もなく、湾内において敵機の攻撃を受け撃沈され、この船に乗った患者達は、悲しくも船諸共あえない最期を遂げたことを知らされた。 (注)

(注) : 当該船舶については期日に一致するする記録が見あたりませんので船名等は不明です。 12月29日ですと 「明隆丸」 (明治海運、4739トン) 及び 「菱形丸」 (元米貨物船 「Bisayas」、2833トン) が門司に向けマニラを出港し、サンフェルナンド寄港中の1月2日に空襲を受けて沈没していまので、この何れかの可能性がありますが ・・・・ ?


 昭和20年の元日を2日後に迎える日の朝、この日は珍しく空襲もなく静まりかえった朝であった。 病院の庭の片隅から景気よく餅を搗く音と人の声が聞こえてきた。 日本軍兵士のこんな元気のよい声を聞くのも久し振りのことであった。

 こうして元気よく搗かれた餅が、元日の朝、雑煮となり私たちの食膳に配ばれ、気持ばかりの正月を祝った。
(続く)
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