2010年12月27日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (88)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 コレヒドール島の守備

 コレヒドール島に移った第12震洋隊は、虎の子である震洋艇をまず同島の樹木の間に隠蔽し、その次に兵器、糧食を安全な場所に格納した。 それからの毎日は震洋艇をまずもって安全に守らなければならなかった。 そのため全員をもって同島の一角に格納壕を掘り続けたのであった。

 洋上において負傷した者 (玉木少尉、私、大貫と 「神福丸」 の北川2等航海士の4名) は、マニラ入港後コレヒドール島に行くことなく、直ちに第103海軍病院に送られ療養することとなり、本隊から離れることになってしまった。

 私は後頭部を始め下腿部などに16箇所に及ぶ傷を受け、全く意識のない状態が丸2日も続いた。 そして入院後は幾らか意識は回復したというものの、しばらく高熱が続き虚脱したような状態から抜け出すことができなかった。

 部隊のコレヒドール島への移動が終わり一段落したころ、北川上衛が連絡を兼ねて見舞に来てくれたそうであるが、その時のことは私には全然記憶がない。

 敵は大軍をミンドロ島に無血上陸させたものの、その後大きな進攻作戦は年の明けるまで行わなかった。

 この間、日本海軍水上部隊は巡洋艦 「足柄」 「大淀」 と駆逐艦6隻からなる艦艇をもって12月26日サンホセ湾に突入した。 だがこの殴り込み作戦は大した戦果もなく、約100名の斬り込み隊を上陸させたにすぎず、全く空振りに終わった。


 コレヒドール島の守備について語る前に、まずここでマニラ方面防衛部隊についてあらましではあるが触れておこう。

 昭和19年7月頃、フィリピン方面にある日本陸海軍の間で、敵上陸時の陸上戦闘の指揮に関する協定が結ばれた。 この協定によりその指揮は各重要地区とも所在陸海軍指揮官の中の最先任者がこれを執ることに決定された。

 12月下旬、ルソン各地所在海軍部隊に対し、南西艦隊から各地防衛部隊の編成が令され、12月22日マニラ防衛部隊が編成された。

 次はマニラ湾口の戦闘準備についてであるが、昭和19年9月10日海軍第31特別根拠地隊が新編された。 当時コレヒドール島には海軍少尉を長とするコレヒドール防備衛所があったにすぎなかった。 同所には根拠地隊水警科 (302名) の一部の兵が配置され、聴音による哨戒、湾口の警戒及び水路に対する響導が主たる任務であった。

 敵の比島進攻が進むにつれ、10月末の比島沖海戦での沈没艦 ( 「武蔵」 「熊野」 「木曽」 「鈴谷」 「最上」 )の一部生残者及び 「鬼怒」 の全生残者をコレヒドール島陸上防備のため配置された。

 昭和17年米軍から占領以来放置されたままであったマニラ湾口各島の要塞砲等の再使用が決まり、これら要塞及び砲の整備等のため11月になって設営隊が投入され、砲台工事、トンネル工事も始められた。

 更に中部比島方面に進出配置される予定であった震洋特別攻撃隊 (第7、第9、第10、第11、第12及び第13震洋隊の人員) は同方面の進出が不可能となり、6隊はすべてコレヒドール島に配備されることになった。
(続く)
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