2010年12月23日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (84)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 サンフェルナンドの夜は更けて (承前)

 フィリピンといえばもともとスペイン領であったが、1898以来アメリカ領となった。 したがって日本占領下にあるといえども住民はアメリカ国民である。 いかに良政によって秩序が保たれているとしても、住民の親米的な根を絶つことはできない。

 したがってその住民たちがアメリカに協力的なことは疑う余地もなかった。 安田、藤田、大橋の各兵曹長は船橋の片隅でこうしたフィリピンでのゲリラの活発な活動のあることを論じ合っていた。

 船長はこの事態を重くみて、準備出来次第出港することを決意し、宣言した。 そして船長と部隊長は早期出港の意志を護衛部隊指揮官に告げ、了承を受けるため、暗夜ひそかに通船を降ろし、駆逐艦「呉竹」へと向かった。 程なくして2人は帰ってきた。 早期の出港は直ちに了解、許可が下りた。

 護衛部隊側では1隻の駆潜艇のサンフェルナンド入港が遅れたため、その艇が入港し水等の搭載が終了し次第 「神福丸」 の後を迫って出港することになった。 また1隻の大型漁船が程なく入港するが、その漁船もマニラまで同行するとのことであった。

( 12月13日、西進中(ミンドロ島上陸作戦のための)の機動部隊を伴った米上陸部隊は、ネグロス島西側から南シナ海に向け行動していた。 14日になり、その兵力、空母3、特設空母6、巡洋艦等大型艦20、駆逐艦50、輸送船約85、上陸用舟艇約110と報告されてきた。 しかし、「神福九」 等にはこのことは分かっていない。)

 かくして、夜が明けてからの出港をにわかに変更し、深夜の暗黒を利用して 「神福丸」 はサンフェルナンドを出港したのである。 次の港は、いよいよマニラ港である。 長かった航海もどうやらこれで終了になるであろうと考えるとき、我々の心に何某かの明るさが湧いてきた。

 サンフェルナンドを離れれば、すぐリンガエン湾口の横断であった。 夜明け頃後方から護衛部隊と大型漁船とが迫って来るのが見えてきたが、湾口中央部付近でほぼ合同した。 昨夜の狼煙の1件もあり、リンガエン湾口の横断は不気味で何か危険を一杯孕んでいるような感じがしてならなかった。

 全速8ノットの 「神福丸」 は対岸の山を見詰めながら約4時間もの時間を費やし、幸いにも何事も起こらずリンガエン湾の横断に成功したのであった。 この横断こそマニラに達するまでに残された一大関門でもあった。

 この横断中、我々は目を皿にしてという言い方があるが、特に潜水艦に対する見張りをこれ以上にない傾重な態度をもって当たった。 だからこの4時間もの時間は今までで最高に長い時間のような気もした。 我々は今更 「神福丸」 の足ののろさを驚きともしなかった。

 陸軍関係の生残者たちが下船したこともあって、朝食からは配食量が少し多くなり、久し振りに食器のカチャン、カチャンという音を耳にした。 だが生鮮食糧は既になく、明けても暮れても乾燥鶏卵 (現代でいうインスタント食品の類でそれは粉末である) などが卓上に多く出るようになった。

 サンフェルナンドではわずかな水を補給したが、それは飲み水程度で入浴できるほどの量ではなかった。 もう我々の身体はべとべととして、肩口辺りを指先で擦ると垢がぽろぽろと落ちてきた。 着た切り雀同様の軍服 (第三種) の襟や背中まで汗が滲み出ていた。
(続く)
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