著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)
魔のバシー海峡
高雄を出港して約8時間 (約60マイル) もかかってガランピ岬を通過、その台湾最南端のガランピ岬が後ろに遠ざかって行く。 椰子の木であろうか、ビンロー樹であろうか、見えていた木立も段々小さくなり島に吸収され大時化のためはっきりしない水平線の中に消えていった。
夕方近くになって2度スコールに似た一時的な豪雨が船団部隊を叩いていった。 さすが北緯22.5度北回帰線より南に下がったところは、12月というのに暑い、そして蒸す。
誰の顔も脂ぎっており、ピリッ!としていた。 どんなことがあってもこの難関を必ずや切り抜けてみせるぞ! という決意に燃えた表情を窮うことができた。 日焼けした顔が一段と男らしくなってきた。
雨も今はなく曇り空であったが、海上模様は最悪、超大型のうねりは一向に衰えそうにもなかった。
夜になって、月も星もない、その上、船の燈火も一つとてない全くの闇夜である。 こんな大うねりでは敵潜も雷撃することかできないであろう。 こうした天候は神の加護によるものであろうか?
こんな時化の中で潜水艦は魚雷を撃ち出すためにはどうしても潜望鏡を海面に出さなければならないだろう。 そうすれば船体が海上にポッカリ露出するに決っている。 それに魚雷も狙ったようには走ってくれないだろう ・・・・ などとあくまで自分本意の当てにもならない憶測などをしてみることもあった。
この辺りの海は特に夜光虫が多いのか、船のかき分ける波が青白く線状に光る。 だが、今では夜光虫の輝きを見て綺麗だなあ! と感心などするようなことはもうなかった。 このような不気味な輝きが我々を死へと誘う前奏曲になるかもしれないという予感めいたものがあったからである。
12月4日、午後10時15分前 (注) 、「当直員交替用意」 を次直員に知らせる伝令がブリッジから降りていった。 私も10時で次直に当直を交代し休むことができると思っていた。 日没時からの長い当直と船の動揺のため相当疲れていた。 ヒュウー、ヒュウーと間断なく叫び続ける風の音の中から、次直者の整列の整備を届ける声が微かに聞えてきた。
自分の当直も後5分間かと密かに思った (少々緊張し切った気が緩む)。 そんなときであった。 私は7倍双眼鏡で見張りしていた。 その目の前 ( 「神福丸」 の右正横) に 「第31播州丸」 (750トン) という名の小型船が並行して航行していた。 距離は2000mはあっただろうか、夜は割合に近く感じた。
ところがその 「播州丸」 はディーゼルエンジンであったか、煙突から火の粉を出し始めたのである。 それにしても火の粉の出ようが少し多すぎるようであった。 私のすぐ側にいた大橋兵曹長が
「おい、隣りの 「播州丸」 が煙突から火の粉を出しだしたぞ!」
「 ・・・・ 」
「今頃火の粉を出すとボガーンと1発もらうぞ。」
と言った。 そう大橋兵曹長が言い終わった、その瞬間である。
「ガ、ガァーン」
我々の目の前に大輪の紅蓮の炎がパーッ! と弾くように咲いた。 その火炎は我々の頭上をも越えていった。
闇に慣れていた私の目も急な閃光のため暫くは何も見えなくなってしまった。 やっと見えるようになった時、もうそこには 「播州丸」 の影も形も見当たらなかった。 1発にて轟沈であった。
(注) : 『 The Official Chronology of the U.S.Navy in World War II 』 によると、米潜 「Trepang (SS-412) 」 による 「第31播州丸」 雷撃は 「タマ34船団」 に対する襲撃2日目の12月7日 18゜54'N 120゜49'E とされていますが、本稿では回想録のままとしています。
(続く)