2010年11月25日

『運用漫談』 − (10)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その5

 大正十年九月十六日、軍艦 「三笠」 が浦鹽港口アスコリッド海峡の暗礁に坐礁 (注1) した當時、逸人は第三水雷戦隊司令官として間宮海峡に居り、北海警備勤務の外に、尼港事件 (注2) の際パルチザン軍が間宮海峡閉塞の為に、同海峡最浅部に沈没せしめたる浚渫船一隻 (時價八萬圓) と大型ライター (注3) 八隻の引揚作業に従事して居つた。

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 此の作業の為には、福島熊太郎少将 (當時大佐)、福井順平造船少将 (當時造船大佐) が居られ、作業用として大浦丸、栗橋丸、扇海丸 (?) 外曳船三隻あり、又沈船曳揚用具も横須賀鎮守府に在る材料の大半を持つて居つた。

 「三笠」 坐樵の無電を受取ると、早速福島大佐に来てもらひ、濃霧の際十二節の速力で乗し揚げてゐる 「三笠」 を曳卸す事は大事業である、如何にすべきかに就き談合したが、一寸見當が付き兼ねた。

 所が翌日海軍省より 「三笠救援の為、大浦丸、栗橋丸、その外曳船一隻を至急浦鹽に派達せよ、福島大佐と福井造船大佐を浦鹽に送れ」 と云ふ様な電報が来た。

 それで早速福島大佐福井大佐と協議したが、此の命令に従ふとせば既に六萬圓餘を費つた當方面の引揚作業は九仭の功を一簣に缺き丸損となるのみならず、「三笠」 の状況を察するに、命令通り行ふとも、何程の効果をも挙げ得ざるべしと考へ、其の旨海軍省へ返電したが、何等の決定的命令も来ない。

 仍て福島大佐を 「駆逐艦にて三笠遭難に急行せしめ、其の他に裁ては同大佐の所見に基き處理す」 と云ふ報告電報を打電したるに、海軍省よりは 「貴官の意見に賛同す」 と云ふ電報が有つた。

 九月二十日駆逐艦 「白露」 は福島大佐を乗せ、先行して間宮海峡、二十三日遭難地著、二十四日駆逐艦 「夕暮」 は救難用ポンプ二臺を搭載して出発、二十七日浦鹽に著いてゐる。

 福島大佐が 「三笠」 に行つて見ると、「三笠」 の前方と左右方面には多数のホーサー (注4) を取り、或は錨を投じ、可なり頑丈に固めありしも、艦尾方向には何等の處置を施してない。 之では何か變化が起つた際、手後れとなる恐れがあるので、ストリーム・アンカー (既出) を艦首方面に投じ、控索を取らしめた。

 當時の 「三笠」 引卸計畫は先づ前部艦底破損部に應急防水處置を施し、次で艦尾に注水し、艦首を浮揚せしめて、曳出すと云ふ心算であつた様である。

 所が天佑にも、二十六日暴風起り、風力六乃至七、激浪と長濤の為、「三笠」 は自然に離礁し、初めに前方に取てあつたホーサー等は或は切れ或は無効となり、福島大佐の取らしめた一本の控索が命の綱となり、幸にして更に陸岸に吹き附けられて全く大破して了ふ事を、之が為めに免かれ得たのである。

 天佑により 「三笠」 は岩礁を離れたが、前部艦底の應急處置未だ出来居らざりし為、前部の浸水甚しく、忽にして艦首は深く水中に突込み、艦尾は高く浮揚し、推進器は空中に現はれる有様となつた。

 仍つて後部のキングストン (注5) を開き、ツリムを正さんとしたるも、後部の浸水意の如くならず、遂に後部水雷室に満水せしめ、初めて船體を水平ならしむる事を得、機械を運轉しつゝ控索を利用し、沖合に出づる事が出来た。

 此時に後部水雷砲臺長 (名を忘れた) が発射管の前後扉を開き、急速浸水せしめたる動作は全く決死的奉公精神の発露にして、大に称揚すべきものであつたと云ふ。

 扨て 「三笠」 は沖合に出づる事を得たが、浸水益々甚しく、船體は時々刻々に沈下するのが明かに見え、其の上に荒天であり、惨憺たる光景とは全く此時の状況であつて、乗員は何れも色を失ひ、一言を発するものなく、當時艦橋に在つて操縦の任に當つてゐた福島大佐の顔を見上ぐるのみであつたと云ふ事である。

 其の後大佐に就き、當時の心持を聞きたるに、大佐は 『 「三笠」 は結局沈没するだらう、自分は艦橋に立つたまゝ 「三笠」 と共に沈んで、死ぬるといふ決心であつた』 と言はれた。

 然るに是れ亦天佑にも、當時の風向は丁度浦鹽に吹込んで居つたものだから、「三笠」 は沈下しつゝも徐かに機械を運轉して、浦鹽に入港することが出来、愈々岸壁に達する頃には、艦底は遂に海底に觸著する様になつたのである。

 其の時駆逐艦を横附してポンプを之に移したが、三等駆逐艦の上甲板より 「三笠」 の上甲板へ飛下りたと云ふことである。

 「三笠」 は夫れより浦港に於て入渠し、艦底の應急修理を施し、舞鶴に回航し、更に入渠して應急修理を十分に為し、十一月二十五日横須賀に回航し、小海の岸壁に繋留した。
(続く)

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(注1) : 「三笠」 の座礁事故については、「アジア歴史資料センター」 の 『大正10年公文備考巻38 艦船15』 及び 『同巻39 艦船16』 に集録されていますので、興味のある方はご参照ください。


(注2) : 大正9年3月〜5月にニコライエフスク港 (現ニコライエフスク・ナ・アムーレ) において共産パルチザン約4千名の手により日本陸軍の駐屯部隊及び居留邦人約700名が虐殺された事件。 合わせて共産主義に同調しない市民約6000名も犠牲になったと言われています。

これも同じく 「アジア歴史史料センター」 の 『枢密院会議文書』 に 『尼港事件ノ顛末』、『外務省記録 5門 軍事』 に 『尼港ニ於ケル帝国官民虐殺事件 第一巻〜第五巻』、等々多数が集録されています。


(注3) : Lighter 平底の艀 (はしけ)。 だるま船、団平船、バージ (barge)、あるいは scow などは同じ種類のものです。


(注4) : Hawser 太綱、太索。 通常外周6インチ(直径48ミリ)以上のマニラなどの索を言いますが、それより細い物でも一般的にホーサーと呼ぶ場合があります。


(注5) : Kingston Valve キングストン・バルブ (金氏弁)。 大口径の海水取入弁を通称 「キングストン弁」 と呼びます。 商品名で同名のものがありますが、必ずしも、というより一般的にはこれを示している訳ではありません。 漲水装置 (Flooding Arangement) として漲水弁 (Flooding Valve) などと組み合わされて、ボイラ (缶) 室、機械室、弾火薬庫など主要な大区画に装備されています。

旧海軍で使用されたキングストン弁の一例と、弾庫の漲水装置の例を下図に示します。


kingston_01_s.jpg   kingston_02_s.jpg

     よく戦記物などで自沈の際に 「キングストン弁を開いて・・・・」 などと書かれたのがよく見られますが、この弁のことです。 ただし、これは自沈の為にあるのではなく、戦闘被害時などで船体のトリムを修正する場合や、弾火薬庫などへの注水など緊急時に使用するために装備されているもの (装置) の “一部” です。

ですから、この弁だけを開けば区画に海水が自動的に入ってくるというものではありません。 キングストン弁を含む全ての漲水装置を開放すれば、まあ自沈に役立つといえばそのとおりですが ・・・・

ただし、船体内に海水を採り入れるのは別にこの漲水装置だけではなく、通常の排水装置を逆に使っても可能です。 これはあまり知られていないことですね。 自沈の際には当然これらも使用されます。


posted by 桜と錨 at 19:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)
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