2010年11月15日

『運用漫談』 − (8)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その4

 前二回に渉りつまらん逸人の懺悔談で、諸君の御気を悪くしたらうと思はれ、恐縮の感がありますので、今回は一つ軍隊の士気を保持するには如何にすべきかに就き、逸人の所験を陳ベる事とする。

 弓も常に張り切って置くと、腰が披けて直ぐ役に立たなく成る。 さりとて又た金銀の高巻繪的装飾を施こし、観兵式的御山の大将の光を添へる一具となつても駄目である。


 逸人中尉の時、水雷艇七號の艇長心得と成つて、初めて水雷発射に出掛けた。 七號艇の発射管は固定のバウ・チューブ一門と中央旋回発射管一門とであつた。

 常時の水雷発射は只魚雷が旨く走る乎、走つて、そして浮むでくれる乎を見るのが主眼で、何等實戦的研究が行はれて居ない様に思はれたから、自分の標的を眞の敵艦と見做し (當時水雷戦隊は碇泊艦襲撃を主眼として居つた)、先づ標的に向つて突進し、バウ・チューブを発射し、直に轉舵旋回発射管を発射し、二門の発射畢つて、初めて採拾すると言ふ遣り方を取つた。

 所が掌水雷長は驚いて、『そんな事をすると、きつと魚雷を亡くするから止めてくれ』 と言うて来たが、『實戦の時はどうする乎』 の一言で之を撃退し、ヅンヅンやると、忽ちにして二本沈没、一本失踪といふへマをやつた。

 然し之は實戦的だと云ふので、兵員の士気は大に緊張し、面白がつて、魚雷発射といふと、悦び勇んでやつてくれた。


 日露戦争の時、愈ゝ旅順の包囲戦となり、哨戒区分が決まり、毎日々々同じ事を繰り返して居ったが、初めは出動して旅順沖に到り、敵の砲聾でも聞くと、士気が緊張して居ったが、後には夫れも駄目となり、乗員が軍港を思ふ様な気分が横溢して来たから、月に一回位の積りで根據地へ帰還した晩に、無禮講をやる事にして、艇長も三等兵もゴツチヤに成つて、大に暴飲をやつたが、さうすると其の翌日は丸で士気が一變して、初めて旅順方面に顔を出した時の様な元気を回復した。

 毎月の無禮講も餘り人聞きが好く無いから、時には演藝會をやつて、隠藝をやらせて見た。 下手でも構はない、一日のきまり切つた日課に疲れた兵隊に嚠喨たる尺八の音を聞かせると、彼等は恰も鶯の雛が其の親の啼く聲に聞き入つて、止り木から落ちる様な恰好で聞惚れてゐるが、夫れで澤山である。 尺八の一聲は一日の労苦は勿論、一週間の物欝さを吹き飛ばすに十分なる効果を現はすことがある。

 比の演藝會の方法は平時でも利用すると良い。 近頃は方々でもやつてゐる様に思はれるが、艦隊が戦技に熱中して、長く上陸を止めて、日夜猛訓練を續けて居る様な時でも、間を偸んで一寸やると、驚くべき効果のあつた事を記憶してゐる。


 「鞍馬」 「利根」 が遣英艦隊で英国に行つた時の事 (注1) である。 時の司令官島村中将は太平洋の眞中であらうが、印度洋の眞中であらうが、少々海が荒れ様が、平気で溺者救助教練もやれば.総端舟漕ぎ方をもやらせる。

 五月廿七日 (海軍記念日) の如きは、地中海の眞中で半目も漂泊して端舟競争をやり、旗艦鞍馬の甲板で両艦員の大祝賀會もやられると云ふ具合であつて、我等は萬里の異境に在つても、少しも、そんな考は起らず、いつも母國の軍港に居る様な気持を保持することが出来た。 兵員の士気の旺盛を保つ骨は此の様な所に在る。
(続く)

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(注1) : 明治44年の英国ジョージ5世の戴冠式並びに記念観艦式のために 「鞍馬」 「利根」 をもって遣英艦隊が編成されて派遣されたもので、指揮官は第2艦隊司令長官の島村速雄中将。 この時参謀長代理は安保清種中佐、著者は 「鞍馬」 水雷長兼分隊長 (少佐) でした。


posted by 桜と錨 at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)
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