著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)
その1 (承前)
曳船の話が出たから、序に軍艦 「笠置」 が佐世保から大湊へ百五十噸 (?) の浮船渠を曳行中、山口縣角島燈臺の下に乗揚げた時の情況を考へて見る。 (注1)

( 元画像 : Google Map より )
當時 「笠置」 航海長は佐世保出港の日、初めて赴任した計りであるが、船渠を曳いてゐる。 風は左舷クォーター (注2) からニ〜三の力 (注3) で押してゐる。 之れが為、艦首は頻りに左舷に回頭しようとする傾きがある。 此等の點から當直将校に 「艦首を左舷に取られない様気を附けよ。 又明朝午前一時になれば起す様に」 と之を申継ぎとして命じて置いた。
其の時針路を決定するのに、単に船渠を曳いて居る為に、船が風上側に向く傾向があるから、船は風上側に変位するだらうと考へて居つた様であるが、之れは反対で、艦首が風上に向ふのは、船渠が風下側に押し流さるゝ為であるから、此のリーウエイ (注4) に対して、十分に餘裕を取って置かねばならぬと言ふ考が薄かつた様に聞いてゐる。
其の内に艦は進んで角島に近づき、豫定位置から云へば、燈臺は右舷、バウニ點位に見えるべきに、夫れが眞バウに発見された。 副直将校は変だから、直に航海長に届けようとしたるに、當直将校は 「午前一時に起せと言はれてゐるから、夫れ迄は宜しい」 と言うて、届けさせない。
燈臺の方では、変な方向から船が来るから危険だと言うて警戒信號用の火箭を揚げて、大に注意を促がした。 「笠置」 は其の儘ずんずん進んだ。
其の内航海長が来て (或は當直将校が驚いて?) こりゃ大変だと言うて、「取舵一杯」 を命じたが、廻はり切らん内に、ドシンと乗り揚げて了つた。
責任は執れに在るか知らんが、曳航中の艦船が風圧を如何に受け、風圧と舵力の関係が如何様な結果を来たすかと云ふ事に対する注意の不充分たりし事が、此の不祥事の重なる原因である。
又燈臺が意想外の方向に見えた時に、直に艦長航海長に其の旨を報告せなかつた當直将校の処置は洵に以ての外である。
當時某将軍 (5) は此の談を聞かれて、『そんな奴は一刻も海軍に置いてはいかん、直に放り出せ』 と言うて大変憤慨せられたが、其の當直将校は所謂名士で、其の後も可なり羽を振はれて居つた様覚えてゐる。 こんな當直将校に会うては、艦長は災難である。 自他共に大に注意すべき事である。
「富士」 「笠置」 の船渠曳船作業に就ては、確實なる記録があるだらうと思ふが、研究したいと思はれる人は就て見られ度い。
(続く)
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(注1) : この 「笠置」 の座礁事故については、その発生年月日や損傷の程度などの詳細は判りません。 もしご存じの方がおられましたらご教示下さい。
当該事故関連につきましては、「アジア歴史史料センター」 より公開されております 『明治36年公文備考巻14 艦船3』 の中に一連の史料が集録されています。 早速ご教示いただきましたHN 「ヤマナカ」 さん、ありがとうございました。 これを見る限りでは、当時としては救難などで騒いだ割には結果としてあまり大した被害もなく、大きな艦船事故とは扱われなかったようです。 どおりで旧海軍の遭難事故摘録集にも出てこないはずで。 (24日追記)
(注2) : quarter、艦尾から45度。 即ちこの場合艦尾から左45度の方位 (方向)。
(注3) : 風力2〜3は、風速4〜10ノット (1.6〜5.4m/秒)、軽風 (Light Breeze) 〜 軟風 (Gentle Breeze) と言われ、海上では漣がはっきりと目立つ段階から白波が現れ始める状態までの間です。
(注4) : Leeway、風落。 即ち、船が風下側に圧流されること。
(注5) : 海軍の事なのに将軍? 提督の誤りではないのか? と思われる方もおられるかもしれません。 が、正しくは 「提督」 と言うのは指揮官配置 (例えば艦隊司令長官など) にある将官のことで、指揮官配置にない将官 (例えば艦隊参謀長など) のことは 「将軍」 と呼びます。
アジア歴史資料センターを検索してみますと、
「軍艦笠置遭難高砂等救護の件」
に記録がありました。
これの(3)から(4)によりますと、明治36年7月21日から22日にかけての事で、艦底を損傷したものの、漏水で済んだようです。