2010年10月21日

『運用漫談』 − (2)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その1 (承前)

 軍艦 「富士」 で、彼の青島で分捕た一萬噸浮ドックを、佐世保から神戸へ曳行した時に、海上保険を附ける事になった。 保険料は何でも二十五萬圓位であった様に覚えてゐる。

 日本には一つも之れに應ずる保険會社は無かった。 欧米にも無かった。 唯一つ英国の何とか云ふ保険會社が百馬力 (?) 以上の曳行力を有する曳艇を附属するならば、保険を引受けようと申出て来たので、結局其の會社にやらせる事となった。

 昔時自分は此の話を聞いて、何故に此の様な曳艇が必要か、一寸不審に思った。

 愈ゝ種々の準備が出来て、佐世保出港の日となる。 見学者が可なりの多数で、逸人も其の一人であったが、向後崎見張所に登って、「富士」 の出港振りを見たものだ。 「富士」 は恵此須湾に碇泊して居つた。

 愈ゝ抜錨して出港を初め、艦首は回頭して港内に向つたが、其の儘回頭が止まって動かない。 昔時 「富士」 の右舷バウ六點 (注1) 位の処から力一 (注2) 位ゐの風が吹いて居つた様に覚えてゐる。 愈ゝ回頭しないものだから、前記の曳艇で船渠の艫を曳き廻はし、出港した。

 向後崎見張所の見学雀連の問に議論が始まった。 其の甲は 『「富士」 は曳船をしてゐる為、回転圏が非常に大きくなつて居るから、回頭が出来なかつたが、廣い洋上へ出れば回頭は出来る』 と言ふ。

 其の乙は 『「富士」 は彼の乾舷の高い船渠を曳いて居る。 斯様な状態に在る時はどうかすると、「富士」 の舵力と船渠の受ける風圧を平均して、回頭の點から見ると、或るデッドポイントに達する時がある。 只今「富士」 の回頭が止まったのは、即ち其のデットポイントである。 斯様な場合には、曳艇の補助を受けねば、如何ともする事が出来ない。 保険會社が曳艇を附属すればと云ふ條件を附けたのは矢張りえらい』 と言ふ。

 斯様に議論が二つに分れ、双方各自の主張を執って動かない。 其の「富士」 はさつさと動いて、出て行つて了つた。 其の後聞く所に依ると、「富士」 が愈ゝ大隅海峡に臨み、之れから室戸崎に向つて変針しようとしたるに、艦首が種ケ島に向つた儘、回頭が止まつて動かないから、止むを得ず曳艇の厄介になつて、漸く神戸に達する事が出来、右の諭争は遂に乙黨の勝ちとなつた。

 此等も矢張り白井教員のツリム論の要諦を呑込んでゐさへすれば、容易に合點し得る事柄である。
(続く)

======================================

(注1) : point、方向 (方位) の角度の単位で、360度を32点として表すものです。 1点が11.25度ですから、90度が8点、180度が16点となります。 したがって、ここで言う 「右舷バウ6点」 とは艦首から右へ67.5度の方向 (方位) であることを意味します。


(注2) : 風力、つまり風の早さを示すもので、0〜12の13段階で表したものです。正式には 「ビューフォート風力階級」 と言われます。 因みに、風力1は風速1〜3ノット (0.3〜1.5m/秒) 、至軽風(Light Air)と言われ、海上では鱗の様なさざ波があるような状態を表します。

 余談ですが、風の向き、即ち 「風向」 は風が “吹いてくる方向” を表しますが、潮流の向き、即ち 「流向」 は潮が “流れていく方向” を表します。


posted by 桜と錨 at 17:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/41432811
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック