2010年10月10日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (19)

著 : 辰巳 保夫

 「震洋」の建造と要員の状況

 「震洋」の建造と要員の教育訓練はいちおう順調に進んだ。 「震洋」 の建造は予定計画数を下回るがかなりの成績であった。 要員の状況は8月16日最初の50名が卒業、8月末に200名(これが我々であった)。 その後月400名が見込まれた。 大森中将は

 「一番心配したのは特攻兵器を整備しても、決死の志願者があるかどうかということであった。 ところが、募集してみると下士官や練習生に志願者が多かったので安心した。」

 と語ったということである。


 特攻兵器「震洋」の戦法

 当時考えられていた震洋隊の基本戦法は、敵の予想上陸正面に近い海岸に発進基地をつくり、艇を洞穴に入れるか樹木で隠しておき、敵船団が入泊すれば夜間に持ち出して浮かべ、隊長のあとに50隻の震洋艇が編隊で続行して敵に肉迫し、最後は高速で突撃に転じ衝撃するものであった。 ただし、震洋隊の使用にはかなりの困難性を伴った。

 発進基地を適確に選定して準備するのに、まず、確率上大きな危険があった。 また 「震洋」 はベニヤ板製であるため耐波性がなく、荒天時の航行が困難であり、かつガソリンエンジン使用のため、敵火力により容易に炎上する弱点があった。 夜間航行が原則であり、これには高度の能力と熟練を要したのである。

 海軍中央部は、「回天」 と同様、「震洋」 においても最後の段階 (敵艦船への突入寸前) で乗員の脱出を強く望んでいた。 8月16日、中央で特攻兵器の用法について全般方針を検討した際、草鹿連合艦隊参謀長は、必死の戦であるので成果のあがる兵器を持たせてやりたいと述べ、「一割生還ノ方途ヲ考へテモライタイ」 と述べたということである。 また、井上海軍次官は、捨て身の戦法の有益なことを認めつつも、「脱出装置」 の準備について発言する一場面もあった。

 だが、海軍中央部は脱出については特別の準備をすることもなく 「震洋」 の建造を進めた。海軍省では、「震洋」 を艦艇としてではなく、兵器として取り扱った。 したがって、震洋隊の編成が可能となったとき、その展開は海軍部の編成によることなく、海軍大臣が 「震洋」 を所定の部隊に供給する形式となったのである。


 水上特攻部隊の編成と展開

 海軍中央部は、予定していた 「震洋」 の衝撃効果実験を結局は実施せずに終った。 軍務担当者はそれは 「装置が簡明」 なため、必ずしも実験を行なう必要を認めなかったという。

 時に、大本営海軍部は捷号作戦に間に合わせるよう、震洋隊の編成と展開を急ぐことになった。
(続く)
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