2010年09月30日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (9)

著 : 辰巳 保夫

 〇一兵器から〇九兵器まで (承前)

 軍令部は同じ月、海軍省側にこれら兵器の各種緊急実験の要望を提示し、軍令部から艦政本部に〇一兵器から〇九兵器までの仮名称を付し、これらの研究、試作および整備を命じ、担当主務部を定めて特殊緊急実験を急がせたのであった。

     〇一兵器 ・・・・ 潜水艦攻撃用潜航艇
     〇二兵器 ・・・・ 対空攻撃用兵器 (対空電探と高高度対空ロケット)
     〇三兵器 ・・・・ 可潜魚雷艇
     〇四兵器 ・・・・ 船外機付衝撃艇 (のち 「震洋」)
     〇五兵器 ・・・・ 自走爆雷
     〇六兵器 ・・・・ 人間魚雷 (のち 「回天」)
     〇七兵器 ・・・・ 電探関係
     〇八兵器 ・・・・ 電探防止関係
     〇九兵器 ・・・・ 特攻部隊用兵器 (のち 「震海」)

 このような軍令部の要望は従来における方針に比べまさに爆発的であり、艦政本部側によっても 「これだけ造ってくれれば必ず額勢を挽回できると信じ、もしこれができなければ必ず敗戦となる。」 と極めて切羽詰まった強硬手段として、実現に突進したのである。

 同年6月、嶋田軍令部総長は 「奇襲兵器の促進係を設け、実行委員長を定めること」 を命じた。 この実行委員長に当時海軍水雷学校長の大森仙太郎中将を選んだ。

 大森中将が特殊兵器の研究整備の責任者として就任した時点で、最も進んでいたのが〇四兵器であった。 衝撃効果の確認は終了していなかったが、各所で既に量産態勢に入っていた。 7月300隻、8月500隻、9月600隻、そして10月には800隻を建造する計画であった。

 一方海軍省側は、これら各兵器の乗員について準備を進め、従来からの甲標的のほか、〇四、〇六、〇九各兵器についてそれぞれ決死の志願者を募集し、大尉以下の初級士官と下士官兵がやがて訓練に入り得る状態となった。


 〇四兵器実用までの推移

 既に量産に入っていた〇四兵器には、重要な兵器装備 (爆薬の装備) 工事の問題があった。 海軍中央部は東京湾方面で建造したものは横須賀海軍工廠で、名古屋以西で建造されたものについては佐世保海軍工廠で装備するように措置した。

 要員準備のほうは、第1期進出兵力50隻分に対しては、既に発令済となり、また第2期進出兵力200隻分に対するものは7月16日発令の予定であった。 〇四艇要員は、差し当たり7月以降毎月300隻分を準備するよう考慮していた。

 〇四艇の教育訓練は、初期のものを横須賀海軍水雷学校で実施し、その後は長崎県川棚町にある臨時魚雷艇訓練所で行なうように計画され、教育期間は1か月とした。


 特攻兵器に命名

 大森中将は19年8月末、これまで仮名称で呼んでいた特攻兵器に対し固有名称をつけることを考えてきたが、〇四兵器には 「震洋」、〇六兵器には 「回天」、〇九兵器には 「震海」 と名付けることとなった。 これらの名称はいずれも明治維新時の船名から採ったもので、このことから 「〇四艇」 とか 「震洋艇」 という両方の呼び名が混用されるようになったのである。
(続く)
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