著 : 辰巳 保夫
震洋 (〇四) 艇の登場
(注) : 本項以降に出てくる 「〇四」 「マル四」 などは 「〇」 の中に漢数字が入ったものですが、通常のフォントにはありませんので全てこの表記で代用しています。
我々が三重空を発ち、横須賀海軍水雷学校へ来るに至った理由となるそれまでの海軍中央部の考えと特攻兵器についての推移を説明しておこう。
我が軍の南東方面の敗勢が歴然となった昭和18年の中頃から、多くの者が米国の圧倒的な物量と、米軍の攻勢に対抗するため必死必殺の特別攻撃の決意断行を真剣に考えるようになった。
その中には連合艦隊首席参謀黒島大佐があった。 同大佐は 「モーター・ボートに爆薬を装備して、敵艦に撃突させる方法はないであろうか?」 と大本営の海軍部幕僚に語っていた。
同年7月同大佐は軍令部軍備担当の責任者として、軍令部第2部長に就任し、大本営海軍部が特別攻撃を採用するうえにおいて決定的な意義をもつこととなった。
同大佐は 「突飛意表外の方策」 により 「必死必殺の戦」 を主張していた一例として、「戦闘機による衝突撃」 の戦法を、また 「爆薬を装備したモーター・ボート」 を挙げ、後者がやがて水上特攻の 「震洋」 (〇四) に発展したのである。
この当時まで既に特攻兵器として甲標的 「蚊竜」 (特殊潜航艇) があり、開戦時のハワイ真珠湾攻撃以来シドニー、ディエゴワルス (マダガスカル島) およびルンガ泊地 (ガダルカナル島) の攻撃に使用された。
甲標的は色々改良されたが、構造がかなり複雑で、必ずしも量産に適さなかった。 また攻撃効果も不十分などと間題点があった。 このため戦局の悪化に伴い海軍中央部は昭和19年2月、人間魚雷の試作を命じ、これが日本海軍の組織的な特攻作戦を採用する第1番手の狼煙 (のろし) となった。
〇一兵器から〇九兵器まで
昭和19年春、古賀峯一海軍大将の連合艦隊司令部が壊滅した。 その直後の4月、軍令部第2部長黒島少将は第1部長の中沢少将と 「作戦上急速実現を要する兵力」 として次の7つのものを挙げたのである。
1 飛行機の増翼 (航続距離を倍加し、戦力を4倍に)
2 体当たり戦闘機
3 小型潜水艦 (航空界の戦闘機のようなもの)
4 局地防備用可潜艇 (航続距離500海里、50センチ魚雷2本搭載)
5 装甲爆破艇 (艇首に1トン以内の爆薬装備)
6 自走大爆雷
7 大威力魚雷 (1名搭乗、速力50ノット、航統距離40,000メートル)
以上のもののうち、局地防備用可潜艇はすでに生産中であった 「甲標的」 であり、大威力魚雷は既に試作命令の出た人間魚雷 「回天」、装甲爆破艇こそ後の 「震洋」 であった。
(続く)