著 : 辰巳 保夫
決死隊への志願
暑い日ざしの毎日が続き太陽は容赦なく照りつける。 埋立て作られた練兵場の砂が焼けてムーとする。 雄飛館のある松林を、伊勢湾から吹いてくる風が時おりざあーッという音を立てる。 松林はかなり長く続いていてそこで風が遮られこちらまで届かない。 皮肉にも音だけが涼しさを感じさせる。 がしかし、われわれの肌を慰めてはくれなかった。
ここ三重海軍航空隊は、土浦海軍航空隊とともに海軍少年飛行兵を育成する練習 (教育) 航空隊である。 私達はこの三重海軍航空隊で最初に入隊した。 そして1年7か月以上の歳月は過ぎ、今では最上級の練習生として猛訓練の日々を送っていた。
乙種飛行予科練習生の教育課程もほどなく終えて、次は実際の飛行術を身につけるべき飛行練習生の教育課程に進むのである。 予科練終末の学期試験の日程も掲示板に張り出された。
その頃、米軍の反撃は日増しにつのり、グアムに上陸、B−29が中国の基地から北九州を空襲、サイパン、テニアンの守備隊玉砕との報が次ぎ次ぎと我々の耳に入り、直接戦闘員でない我々も戦局の重大さを大いに感じさせられ、これを憂うる心が日増しに大きくなっていった。
約1か月前、私達は休暇を与えられ郷里へ帰って来た。 予科練時代における休暇はこれが先にも後にも1回だけであった。
時、昭和19年8月の末日である。 太陽の照りつける午後1時、「19期及び20期生は総員剣道場に集合」 という号令が拡声機から流れた。 当時三重海軍航空隊には甲種・乙種及び特乙と飛行練習生は5千ないし6千人はいた。
道場では、練習生以外は分隊長、分隊土といえども人払いを受け内部に入れなかった。 道場の神座を背にして古瀬貴季司令 (大佐、海兵42期) が、その側に副長とあと1人の海軍士官の3人だけが残った。
今からなにが起こるのであろうか、みんなの心の中は少なからず動揺せざるを得なかった。 副長ならばいざ知らず、司令が一段高いところに立っておられる。
副長の顔を見ると、いつでもわれわれが入隊して間もない頃、大声で叱られたときのことを思いだす。 副長は高橋中佐 (俊策、海兵48期) であり、かの 「月月火水木金金」 (曲の題名は 『艦隊勤務』) の作詞者である。
その時はこうであった。 副長が号令台上から総員集合した練習生を見おろして、「お前達は帝国海軍軍人か」 と一喝、
「昨夜、お前達の中の1人が雄飛館の食堂の丼鉢の中に××をした。」
「何たる行為だ。」
「軍人たる者は恥を知れ。」
「そんな躾をだれがしたか。」
「当分の間酒保は禁止する。」
××のところは伏せておこう。
総員集合があるとまた何か事件でも、だれかが何かやらかしたのではないかと邪推をした。 また、何か重大なニュースがあるのか、練習生だけの集合だぞ、と走馬灯のように素早く頭の中をつまらぬ憶測が浮かぶ。 実のところまだ何が飛び出すかわからない。 やや長い時間が経った。
一旦司令は高い台から降りられ再度その位置に立たれた。
「頭右っ!」
練習生は一斉に司令に対し頭を向け注目した。
「直れ!」
大道場は広い、そこへ大勢の人、電灯はついていたが暗く感じる。 司令が練習生に向かって、口調も軽く切り出された。
(続く)