2010年08月10日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その24

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (9)

 当時のフィリピン独立党について簡単に紹介しておこう。

 独立党の名は、彼らがよく Independence という言葉を使ったから私が仮に独立党と言うのであって、公式には Self Suporting Party と言った。 本部はミンダナオ島にあって、セブ島には数百人のシンパを持ち、7、8人の行動隊がいた。

 彼らの主張は純朴で、要するに父祖伝来の農地を開放されたくないということ、フィリピン人2千万人の経済的発展よりも南部の各部落民達がそれぞれの地域で完全な自治を許され、政府や軍隊の干渉を受けずに平凡に暮らしたいということであって、イデオロギーの問題や狂信的で超民族的な主張ではなかった。

 それは排他的で保守的で、理論より感情、法秩序よりも宗教習俗の方が優先していた。 また、為政者と軍隊に対する敵慢心は極めて一途であったが、武器を持って反抗するというところまでは発展していないようであった。

 もっとも、党員達の中には女性がいたし、青年達は薄いシャツ一枚とショートパンツでピストルもナイフも持っていなかったから私がそう思っただけで、裏ではテロをやっていたかも知れない。

 彼らは、主としてミンダナオ島とビサヤン諸島 (セブ、ネグロス、ボホール等の島々) で党勢の拡大に努力していたが、開戦直前にアメリカ軍に捕えられ、約20人がセブ刑務所に収容された。 そして、日本軍のフィリピン占領と同時に解放されたのであるが、解放後も7人がその刑務所を根城として活躍していた。

 私がこれらの独立党員達と交わるようになったのは、全くの偶然か、或いは計画された陰の力が動いていたのか、今もよく解らない。

 その経緯を説明すると、昭和17年2月、私はコレヒドール要塞攻撃の任務を与えられ、第三十一航空隊を九州佐伯で編成してマニラに進出した。 ところが、マニラ基地でこの作戦を始めてみると、コレヒドール要基はベトンで固められた堅牢無比の構造であって、私達の爆撃ではどうにもならなかった。

 そこで、3月になってから私達はコレヒドールの強襲作戦を止めて、糧食弾薬の補給路を速断する作戦に転換したのであった。 その計画は、三十一航空隊の一部をセブ島に進出させ、マニラとセブの両基地から、濠州とコレヒドールを結ぶ線上のスル海の哨戒をすることであった。

 ところが、17年3月にはまだ日本陸軍はセブ島を占領していなかったので、私達はセブに進出することができない。 そこで、4月10日の早朝、2万の日本陸軍がセブ島に上陸し全島を占領したのであった。 そして、私達三十一空の一部兵力は4月17日にセブ島に進出し、マニラとセブの両基地からコレヒドールの補給路速断作戦を開始したのであった。
(続く)
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