正式に決められているものは 『海軍礼式令』 の内容であり、それが全てであって、肱の位置がどうのこうのなど、一般に流布される “海軍式敬礼” などと言う具体的な規定はなく、実際の具体的な “形” については、その時その時の状況や、個人の癖などによって変わる、即ち “臨機応変なもの”
ということをお話ししました。
そこで、この海軍における挙手の敬礼について、何故そうなっているのかを、その起源まで含めてもう少しお話しをしたいと思います。
( 言うまでもないことですが、本稿で問題にするのは挙手の敬礼についてのみであり、銃や剣による敬礼、あるいは艦や部隊としての敬礼、室内における敬礼などは別のことです。 これらについては、必要が出てくればまた項を改めてお話しします。)
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海軍における挙手の敬礼の始まりはご存じのとおり “脱帽” にあります。 そして、この “脱帽” するということは、組織としての 「儀式」 「儀礼」 ということの前に、まず 「マナー (礼儀) 」 「躾け」 「身嗜み」 ということから始まっています。
遠く、ギリシャやローマ、そしてカルタゴの時代には、既に艦上、そのほとんどの場合が後甲板に祀られた祭壇に向かって脱帽することが行われてたことが知られています。
そしてこれが次第に後甲板、即ち 「Quarterdeck」 という権威 (=指揮官) の場所、そして軍艦旗 (=統治者、王室などに対する遵奉の象徴) に最も近い場所に対するものへと繋がって行きます。
この脱帽という行為が、尊敬や敬意の表現として使われることは、例えば西欧においては今でも教会や祭壇の前、あるいはお墓、特に戦士の墓の前、で一般的に見られることなどで、皆さんご承知のとおりです。
また、個人に対する敬礼というものも、古くは騎士の時代にその冑や帽子の庇を上げて互いに顔をよく見えるようにしたことが始まりとも言われています。
そして、階級差というものが大変に厳しかった時代ですから、下の者が上の者に対して帽子や頭巾などを取るという “形” を伴った挨拶が求められたことは、当然の成り行きでしょう。
こうして、海軍における個人の敬礼も、“脱帽” という行為によって始まったわけですが、当時の海軍における候補生 (midshipman、middy) 以上の帽子はご存じのとおり、いわゆる 「仁丹帽」 です。

( Charles Rathbone Low 著 「Her Majesty's Navy」 より )
この帽子を艦上において如何に “スマート” に扱って脱帽するかが、紳士たる士官のマナー、身嗜みとして重要な事項であったことは、想像に難くありません。

( Jean Randier 著 「La Royal」 より )
この様な伝統と慣習に則って、19世紀の初め頃までは、英海軍においても、上官に対しては脱帽することが “躾け” られていたとされています。
そして、19世紀の半ば頃になると、この躾けは脱帽する場合と、単に帽子に手を触れるだけで実際には脱帽しない場合に別れてきました。 段々と “形” という形式が重んぜられ、今日のような 「儀式」 「儀礼」 に近づいてきたわけです。
色々なケースがありますが、例えば上官が下級者に答礼する場合は触れるだけ (触れる素振りだけ)、あるいは軍艦旗などに対する場合は脱帽するが上官に対する場合は触れるだけ、などなどです。
特に、士官の艦上における帽子が、正装する場合を除いて、通常は仁丹帽からいわゆる今日の 「軍帽」 になってきたことは、この帽子に手を触れる形式に拍車をかけたものと考えられ、今日の挙手の敬礼への移行が始まったと言えます。
1882年の英海軍の規則では、
「 海軍における敬礼は、帽子に手を触れるか脱帽により、受礼者を眼前に見た時に行うものとする。 提督、艦長及びそれと同等の士官は常に脱帽の敬礼を受けるものとする。」 (意訳)
と定められていました。
ところがこの英海軍では、1890年の国王祝賀会において、出席した海軍士官及び下士官兵は揃って脱帽して起立しましたが、この姿がビクトリア女王のお気に召さず、以後挙手の敬礼のみとすることが布告されたとされています。
したがって、英海軍ではこの時点で長年の “脱帽” という伝統と慣習から、儀式・儀礼としての挙手の敬礼に切り替わりました。
そして、海軍におけるこの挙手の敬礼が、「仁丹帽」 を脱ぐために帽子に触れる動作が基本になっていることは申し上げるまでもありません。
つまり、英国やフランスの陸軍のように、手に何もないことを示すために掌を表に向けるものとは、その意味が異なると言うことです。
(続く)
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海軍における挙手の敬礼 (中)
http://navgunschl.sblo.jp/article/40083250.html
海軍における挙手の敬礼 (後)
http://navgunschl.sblo.jp/article/40098164.html