2010年07月21日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その10

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その1 ルソン島 (6)

 昭和17年4月の或る夕べのことだ。 MOLE のいたキャバレーで、酔払った陸軍の下士官がフィリピン女性を日本刀で袈裟がけに斬った。

 その時フィリピンの女達は悲鳴を上げながら、異国人である日本人の側から少しでも遠くへ逃がれようとし、争って暗がりやテーブルの下に隠れた。 私と MOLE は斬られた女性の位置から五米も離れていなかったが、彼女だけは逃げなかった。

 私は軍刀を引きつけて立ち上がり、彼女を庇う形になった。 彼女は逃げようと思えばその時逃げられた筈だ。 しかし、彼女は私の背中でじっと耐えていた。

 同僚の下士官が乱暴者の日本刀を奪い、憲兵が彼を連行して行ったので、私が椅子に坐ると彼女も崩れるように坐った。 そして、涙を湛えた目でじっと私を見つめた。 彼女の目には絶望の悲しみがあったが、日本人に対する怒りと非難の色は少しもなかった。

 暫くすると、彼女は私達の近くまで飛び散った血潮を自分のハンカチで静かに拭い始めた。 私はそれを止めて、急いで彼女をこの浜辺に連れ出して砂の上に腰を下ろさせ、一時間ばかりバタアン半島の山々を眺めながら彼女が冷静に還るのを待った。

 彼女の頬にはいつまでも涙が流れていたが、敵国人たる私に対する嫌悪の言葉も、同じ民族の女性が殺されたことの怒りの言葉も彼女の口からは出なかった。 そして、済まなさそうに中国人街まで送ってくれとだけ言った。

 中国人街には彼女の家があった。 この時もし私が送り届けることを断わったら、恐らく彼女は、一粁もある暗い夜道を並木や電柱の陰に隠れながら、ましらのように逃げ走ったであろう。 それでもなお、私を恨むことはなかったであろう。

 この時は中国人街の入口まで彼女を送ってやったが、別れ際に燃えるような目でありがとうと言って走り去った。

 こんなこともあった。 四月末のある夕べ、マニラ市の中国人街の中華料理店で、5、6人の部下達と夕食のテーブルを囲んだ。 酒はカナダのウイスキー、ドウソンであった。 MOLE が傍にいた。

 小鶏の揚げたのが (鼠か蛙の足を揚げたものであったかも知れない) うまかったので、私は MOLE にもすすめて食べさせた。 一時間ばかり飲んだり食べたりして帰ろうとする頃、彼女は腹痛を起こしたらしく額に油汗をかいて苦しみ出した。

 軍医中尉がメンバーの中にいたので診察をして、その飯店の主人に、彼女に下剤を飲ませてすぐ休ませるように言った。 すると、彼女は苦しそうに、

 「料理が悪かったのではないの。 鶏のフライを食べるといつもお腹が痛くなるの!」

 と言って泣いた。 私は、

 「それを知っていて何故食べたのか?」

 と叱ると、彼女は、

 「貴方様が食べなさいと言ったから・・・・・・」

 と答えた。 この時私は、彼女は知能が少し薄いのではあるまいかと疑ったが、一方では、彼女は英語とタガログ語とピサヤン語を自由に喋り、服装は質素な綿服で清潔だし、身のこなしはスマートで凡帳面で、決して知能の足りない女とは思えないのであった。

 また彼女は、口もとに少女の名残りを残してはいたが、ヒップとバストは大人であったし、未成熟故の不用意とも思われなかった。

 もともと彼女は、マニラ市のストンブリッジの北のいわゆる市井の陋屋に住み、教養は低く、貧しくて家庭環境が悪かった。 だから、ずるくて嘘をつき、不潔で貧欲であっても不思議ではなかったのだ。

 ところが、総てがその逆で、彼女は怒りや悪意を知らず、虐げられれば恨まずに身を退き、愛されればその人のために献身し、でしゃばらずに分を守り、素朴で嘘を言わず、衒い (てらい) もなかった。 発想は常に美しく、自然の美と人間をうまく結びつけた。

 私は彼女と会っている時だけは心和やかに、その日の戦いを忘れてしまったが、それはこのような彼女の心の美しさに惹かれたからであった。 そして、それがお互いの心の触れ合いにまで発展したのも、彼女の素直で献身的な性格によるものであった。 それはスパイとか敵国人ということとは別問題であった。

 私は一目でもいいから彼女に会って、ありがとうと言いたい思いが再びつのるのであったが、その当てもなく夜は更けていった。 マニラ湾の提灯行列の灯はますます冴えわたり、小波に映えて千千に砕けた。

 MOLE に会えなくても明日はまた想い出の地が待っている。 私は砂浜から立ち上がり、深夜の街を MABUHAY ホテルに向かって歩いた。 靴音がビルの壁から跳ね返ってきた。
(続く)
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