まずは、前回の橋詰門を入った 「鶴の丸」 から左に進んで 「二の丸」 方向へ向かいます。

( 案内パンフレットより )
右手の「二の丸跡」 は現在では何もない広い公園になっておりますが、左手の石垣と堀の先に橋が見えてきます。

この橋が 「極楽橋」 と呼ばれ、これを渡ると 「本丸付段」 と言われるところになります。

ここには現在は 「三十間長屋」 だけがポツンとあります。 この三十間長屋は重要文化財に指定されており、石川門と並んで金沢城の現存する数少ない建築物の一つです。 安政5年 (1858年) の再建で、倉庫として用いられたようです。

三十間長屋から更に進むと 「鉄門跡」 の石垣があります。 ここが 「本丸」 への入口になります。

この先の本丸跡は、天守閣跡の石垣も含めて何も残っておらず、現在では 「本丸園地」 と呼ばれ、鬱蒼とした雑木林になっています。
元々金沢城の天守閣は慶長7年 (1602年) の落雷による焼失後は再建されておらず、それ以降はこの本丸や隣接する東の丸がどの様なものだったのかよく判りませんが、散策路の脇には池などの庭園の跡の様なものがチラホラ残っています。
そこにあるのがこれ ↓ 「日露戦役記念碑」 です。 この碑は、かつて中学時代にもここを散策した時に見た記憶があります。

これだけが散策路脇にポツンとありますが、何時なぜここに建てたのかなどはわかりません。 日露戦争の旅順攻略戦において多大な損害を出した金沢第九師団ですから、師団司令部のある金沢城内のこの園地が選ばれたのかも?
ここ本丸・東の丸跡にはその角に 「戌亥櫓」 「辰巳櫓」 「丑寅櫓」 の櫓跡があります。 それぞれの石垣上からみた眺めです。 本丸を守る要衝であったことが判ります。

( 戌亥櫓跡からの眺め 二の丸・鶴の丸・三の丸などがよく見えます )

( 丑寅櫓跡の石垣 他の櫓跡も同じ様な石垣が残っています )


( 左 : 辰巳櫓跡から広坂方向を望む 右 : 丑寅櫓跡から兼六園方向を望む )
本丸園地内を一周しておりてくる途中に、本丸の一部を削ったと思われる窪地があり、そこにこのような ↓ ものがあります。

本丸石垣の外側からこの窪地に通じるトンネルです。 この窪地は旧陸軍が弾薬庫とするために掘ったものだと言われていますが、実態はよく判っていません。
そして更に鶴の丸方向へ下ると、途中の 「東の丸付段」 にあるのが 「鶴丸倉庫」 です。

この倉庫は長い間明治期に旧陸軍が建てたものと考えられてきましたが、最近発見された文書により、焼失後の弘化5年 (1848年) の再建であることが確認されました。 武具倉庫だったと言われています。
これで本丸・東の丸跡を一周しました。 次は金沢城趾の北側です。

( 案内パンフレットより )
金沢城のメイン玄関たる 「大手門」 は、城の北側にあります。

大藩の城の大手門に相応しい立派な石垣が残っていますが、門や櫓等はその初期に焼失して以後ずっと再建されないままだったようです。
この大手門の西側には堀が残っており、「大手堀」 と呼ばれています。


( やはり雨の日のお堀と石垣はまた一段と風情があります )
大手門を入ったところが 「新丸跡」 で、現在は全く何もない広い 「新丸広場」 となっており、その奥に先にご紹介した 「河北門」 や 「菱櫓」 などが見えます。

この新丸跡は明治期には旧歩兵第7連隊がおかれていたところですが、それを偲ばせるものは何も残っていません。

( 1946年の米軍写真より )

( 1945年の米軍地図より )
ついでにご紹介しますと、城趾内ではありませんが、大手門の西側にある 「黒門」 のすぐ外側に、「黒門前緑地」 と呼ばれるところがあり、立派なお屋敷跡があります。

ここは、最近まで金沢地方検察庁検事正の官舎だったところですが、元々は前田利家公の四女、豪姫の住居だったところだそうです。


この元官舎をそのまま保存し、更に旧高峰家 (加賀藩の御典医、タカジアスターゼで有名な幕末生まれの高峰譲吉博士はその家系) の家屋を移築して、平成13年に公園として整備したものです。
建物の中も無料で見学できるようですが、訪れた日はたまたま市民の何かの集会で使われていたようで、入ることができませんでした。
さて、金沢城趾のご紹介の最期は、私のブログならでは。 先もご紹介した 「第六旅団司令部跡」です。

( 案内パンフレットより )
ここへは 「金沢城兼六園管理事務所」 の脇を通って、「土橋門跡」 の石垣へ行くとその先に見えます。

旅団司令部の入口が 「切手門」 です。

この門は司令部庁舎の正面にするために、向かって右に約1m移築されたと言われていますが ・・・・ う 〜 ん、それにしては元のままでよかったような ・・・・?
旧第六旅団司令部庁舎は、明治31年の建築と言われていますが、それにしても当時の旅団司令部は小さいですね。 現在では全く使われておらず、また通常は内部を見ることもできません。

この司令部庁舎のあるところは、元々は側室や奥で働く女中達が居住する 「数寄屋敷」 と言われているところの跡だそうです。
これにて金沢城趾のご紹介を終わりますが、まだまだ見所は他にも沢山あります。 特に 「石垣巡り」 は地元の散策路として知られています。 現在では幾つかのコースが設定されて、散策の道も整備され、またあちこちにきめ細かく案内板が置かれています。

なお、「金沢城公園」 について詳しくお知りになりたい方のために、公式サイトはこちら ↓ です。
そして、HN 「T.Haru」 氏の 「金沢城探検倶楽部」 という素晴らしいサイトがあります。 お城好きの人にはちょっと堪らない内容ですね。 是非一度お尋ね下さい。