2010年05月11日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その28

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (12)

   その3 海の恐怖 (承前)

 昭和7年12月27日、海軍兵学校は2週間の正月休暇に入った。 私には、この休暇が兵学校時代の最後の正月休みであった。 この機会を逃したら、生涯、級友達と一緒に冒険をやってみる機会は来ないわけで、そこで思い立ったのが、同級生7名だけで冬の瀬戸内海の 「機動艇巡航」 をやることであった。

 「機動艇」 というのは、機械で動かす小艇という意味で、昭和12年頃まで戦艦クラスに搭載して交通艇として使われたり、各軍港や兵学校に雑船として配備され、訓練や雑用に使われていた。

 この船は上甲板に魚雷を二本抱いて敵艦に肉迫し、命中射三角の射点に占位して、人力で魚雷を海面に転がり落として雷撃をするという水雷艇が原型で、日清、日露戦争時代の日本海軍の栄光 「水雷艇の夜襲」 を後輩に伝えるために温存されていた船であった。

 兵学校にあったものは、総噸数約20噸、全長約15米、速力は全速で12ノット、石炭缶、蒸気ピストン、推進軸は一軸、定員は7人 (艇長 1、操舵員 1、缶員 1、機械員 1、甲板員 1、魚雷員 1) の木造船であった。

(注) : ご存じのとおり一言で 「艦載水雷艇」 と言いましても明治期から始まって各種のタイプが存在しました。 下図の上のものが 「56呎 (17米) 艦載水雷艇」 と言われる最も一般的なものの一つです。 本項で出てくる兵学校の 「機動艇」 がどのようなものであったのか詳細は不明ですが、この56呎のものよりは一回り大型であったと思われます。 「運用術教科書」 に下図の下のものが出てきますが、もしかするとこのタイプかとも思われます。


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( 両図とも 「海軍兵学校運用術教科書」 より )

 木造船とは言っても、甲板に敷きつめられた厚いチーク材は鋼板のように強く、ベンチュレーターやハンドレールは総て銅製で、船首船尾の両舷の鉄の双繋柱にも厚い銅板が巻いてあり、それらは磨き上げられて黄金色に輝き、清潔でスマートで頑丈であった。

 しかし、缶は五右衛門風呂式の丸い水タンクを石炭缶で熱するという原始的なもので、炭塊をスコップで火床に放り込んで、大きい火箸で掻き混ぜて燃やすわけだから、煙突から石炭の煙をモクモクと吐き、燃え滓がもぐらの糞のように貯って捨て場に困った。

 エンジンは二衝式のピストンであったので、ゴットンゴットンと大騒音を発するし、機械に後進をかけようとしてもクラッチが簡単に嵌合しないので、船首が桟橋や岩壁にぶつかってから後進がかかるという、いわゆる 「当りゴースタン」 になることがよくあった。

 吃水は約2米、二重船底で重心位置が低く、浮力中心が高く、耐波性、凌波性は極めて優秀で、横波で船体が90度以上傾いても復元力が強くて転覆することはなく、煙突から浸水しない限り沈没の危険はないと言われた。 また、キールの木材は太くて頑丈で、岩盤に船底を擦ったくらいでは船体に穴が開くことはなかった。

 こんな船だから、海図の読み方と海上衝突予防法を書物だけで学んだ私達7人の少年に、厳冬の瀬戸内海の処女航海をすることを許したのであろうが、日本海軍はいい船を後輩に残してくれたものだった。

 昭和7年12月27日1300、このような機動艇に乗って、海軍兵学校の表桟橋を出港して三日間の航海の途に上った。

 乗員は北島 (一良) (天理教教師、49年3月死亡)、福井 (睦雄、新姓和田) (イ号33潜水艦で19年戦死)、深井 (俊之助、62期で卒業) (高梁市花蓆製造会社社長)、楢村 (忠雄) (東京乾燥木材社長)、駒形 (進也) (名古屋、会社重役)、抜井 (金美、新姓坂本) (防衛庁戦史室教官) と私の7人であった。

 その日の江田内は、雨雲が垂れ込め古鷹颪が肌を刺し、冒険の鹿島発ちにふさわしい天候であった。
(続く)
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