既にご説明しましたように、平時は明治23年制定の 「海軍軍令部条例」 により、軍令部長は軍令の起案、上奏は行うものの、その後の実施については海軍大臣が行いました。
また、戦時になって大本営が設置されると、明治36年改正の 「戦時大本営条例」 によって軍令部長が統帥に関する軍令を直接所掌しました。
( 余談ですが、皆さんご承知のとおり、明治23年制定の当初の 「戦時大本営条例」 では、陸軍の参謀総長が大本営における参謀長として陸海軍を統轄することとされていました。 それが明治36年、それも12月28日になっての改正によってやっと参謀総長と軍令部長が対等並列となりました。 対露開戦決意が翌37年2月4日であることを考えると、まさにギリギリのところであったと言えます。 この件でも 『別宮暖朗本』 の著者は明らかに何か勘違いをしてますね。)
これによって旧海軍は日露戦争を戦い、第1次大戦を経てきたわけで、多少の海軍機構の変化はあったものの、基本的にはこの原則は維持してきました。
しかし、昭和に入ってから、昭和5年のロンドン軍縮会議とそれに伴う統帥権干犯問題の惹起、昭和6年の満州事変、昭和7年の上海事変と進むにつれ、今日で言う有事即応体制の確立の必要性が言われるようになりました。
即ち、戦時平時を問わず国防用兵に関することは全て軍令部長の所掌とするとともに、一層の軍令部長の権限強化を企図したわけです。
しかしながら、結局はこの改革は海軍省との折り合いが付かなかったため、「海軍軍令部」 が 「軍令部」 へ、「軍令部長」 が 「総長」 へと名称が変わったものの、最終的な内容は、平時も軍令部長所掌とするための 「海軍軍令部条例」 第3条の改正のみが中心となりました。

即ち次のとおりです。
「海軍軍令部条例第3条」
海軍軍令部長は国防及用兵に関することを参画し親裁の後之を
海軍大臣に移す
↓ ↓ ↓
「軍令部令第3条」
総長は国防用兵の計画を掌り用兵の事を伝達す
これによって、軍令部総長は平戦時を問わず用兵に関することは総て自ら海軍の部隊に伝達・命令することができるようになりました。
ところが実際はこれだけではなかったのです。
当然のことながら、この改定に伴い用兵事項の事務処理上の分担・手続要領を定めた明治26年の 「省部事務互渉規程」 も、昭和8年の 「海軍省軍令部業務互渉規程」 へと全面改正されました。
重要なことは、「軍令部令」 で改正された表現以上に、この 「業務互渉規程」 において、具体的な各項目毎についての軍令部と海軍省との事務処理分担・要領を改正することにより、実質的な軍令部総長の権限が拡大・強化されることになったことです。
がしかし、同規程は 「内令」 (内令第294号) とされたために、それが表に出ることはありませんでした。 旧海軍はこの状態で支那事変と、続く今時大戦を戦ったのです。
また、「軍令部令」 制定に伴い、軍令部長が定める軍令部の機構及び所掌事項の処理要領については、明治37年に定められた 「海軍軍令部庶務細則」 が、「軍令部服務規程」 (軍令部機密第2号) 及び 「軍令部庶務規程」 (軍令部機密第3号) へと全面的に改正になりましたが、これも機密文書とされたためにその実態が外に出ることはありませんでした。
( 正確に言うならば 「海軍軍令部庶務細則」 は昭和6年の改定の際に、上記昭和8年の 「軍令部令」 改正に先だって機密文書に指定されました。)
因みに、この昭和8年の 「軍令部令」 制定については、昨年8月にNHKの番組に関連して書いた次の記事 ↓ の中でご紹介した 『軍令部令改正之経緯』 と言う旧海軍史料に詳述されています。

また、海軍の軍令に関しては、以前に 「旧海軍の軍令について」 と題する記事 ↓ でご紹介した 『日本海軍軍令の研究』 に詳述されていますので、興味がある方は機会があれば是非ご参照下さい。

(この項続く)
今週末東京に学会講演会を聞きに行く予定ですので、その足で靖国神社に立ち寄って、 『日本海軍軍令の研究』 を見てみたいと思います。