2009年12月11日

機械水雷 (機雷) の基礎 (6) − 小田喜代蔵と機雷 (後編)

 それでは小田は 「自働繋維器」 を考案しただけなのか?

 いえ、実は小田の大きな功績は、日露戦争における連合艦隊の 「艦隊附属敷設隊」 ( 後に 「艦隊附属防備隊」 と改称された ) の指揮官 (隊司令) としての任務完遂にあります。 この著者は全く無視して、触れていませんが。

 この艦隊附属敷設隊というのは、開戦時からずっと根拠地にあって、敷設水雷・機雷のみならず海底電纜も含む、いわゆる “敷設” に関する一切合切の総てを担当しました。

 当然、港湾防備用の水雷敷設を含む各根拠地の防備施設の設置及び運用もその主要任務ですし、これには陸上の衛所や防備砲台などの建設も含みます。

 特に、敷設水雷・機雷の調整・整備と艦艇への供給、現地での改良・改造と実験などは、極めて多忙な業務です。 もちろんそれを取り扱う人の問題もあります。

 この艦隊附属敷設隊で準備して各艦艇へ供給した敷設機雷は、 明治37年中だけでその総数約1600個に登り、これに明治37年末〜38年にかけての数百個 (詳細な数は不明) の連繋機雷が加わります。

 これ以外に、敷設隊自らが敷設作業を実施した根拠地等防備用の各種敷設水雷があります。 これだけでも大変な業務です。

 そして、小田自身はその敷設に関する専門技能・知識を買われたこそ艦隊附属敷設隊司令に選抜され、それに関する幕僚として東郷の元で働いたのです。

( 旗艦艦長や後方支援部隊などの指揮官は、正式名称はありませんが、その専門分野について艦隊司令部の特別幕僚として機能し、司令長官を補佐します。 このやり方は現在の海自でも変わりません。)

 また、小田自身は、東郷の命により 「ペトロパブロフスク」 を撃沈することになる明治37年4月12日の旅順口沖への第1回目と、同4月29日のウラジオストック港外への第1回目の、両方の機雷敷設作戦に従事しています。

 両方とも専門職の部下を引き連れて、旅順口沖では仮設砲艦 「蛟龍丸」 に “同艦の” 敷設指揮官として、またウラジオストック沖では敷設に関する指導・補佐役として 「日光丸」 (直接の指揮官は 「日光丸」 艦長) に、乗艦したのです。

 つまり小田喜代蔵は、“敷設” ということに関し、連合艦隊の作戦を支える縁の下の力持ちとして、実に見事にこれをやってのけたのです。 これは大きく評価されてよいと思います。


 ここまでお話しすると皆さんにもお判りいただけるように、実はこの小田喜代蔵は、この著者が言うような機雷そのものの専門家ではなくて、その機雷の 敷設に関する専門家 なのです。 『別宮暖朗本』 の記述とは全く違う人物であることがお判りいただけた思います。

 したがって、

 小田喜代蔵は防禦水雷を攻撃的に使用できないかと考えた。 (中略) 小田は、電気水雷は防禦目的にしか利用できないとして早くから棄て、研究対象を機械水雷一本に絞った。 (p182) (p190) 

 ではありません。 これでは全く当を得ておりません。

 彼は機雷そのものは一つも考案していません。 そして前回お話ししたように、彼が考案した自働繋維器は、当初から攻勢的使用を念頭に置いたものではありません。

 防御用、攻勢用ということには関係なく、彼は “敷設の専門家” なのです。

 発明してもいないものを発明したと言われ、やってもいないことをやったと褒めちぎられ、揚げ句に自分の本来の功績は何等語られていない、では小田喜代蔵もさぞあの世で苦笑いしていることでしょう。


 そして、その機雷敷設についてです。

 ペロトパブロフスク撃沈は、機雷戦術に新局面を開くものだった。 とにかく、機雷を攻撃的に使用するという発想はそれまでの世界の海軍界にはなかった。 (中略) そして、小田の発明になる線状敷設も残った。 (p187) (p194) 

 ロシア海軍にも小田に匹敵する水雷の鬼がいた。 機雷敷設艦アムール艦長のイワノフ中佐である。 イワノフも小田と同様に、攻撃的に機雷を使用できないかと、密かに考えていた。 イワノフの回答は「機雷原」だった。すなわち、面をもって圧倒的な量の機雷を敷設する。 (p187) (p194) 

 この著者、一体何を言いたいのやら。

 一般的な意味での 「機雷」 で言うならば、その攻撃的に使用する発想も実際の使用例も起源時に遡れるほどあります。 そんなことはちょっと戦史を紐解けば明らかかと。

 またこの 「機雷」 を 「繋維機雷」 のことだとするなら、当然そのように記述しなければ、意味が違ってしまいますし、またその 「繋維機雷」 が大規模かつ攻勢的に使用可能になったのが何時、どうしてなのかを書かなければ、機雷戦について語る上ではおかしなことになることは前回ご説明したとおりです。

 ましてや “密かに考えていた” など笑止ものです。

 そして、そもそも 「繋維機雷」 というものはどのように敷設するのか?

 「敷設水雷」 のような管制式のものであるならば、その管制用の電纜を取付、これを陸上の衛所まで伸ばさなければなりませんから、一つ一つの敷設が大変手間暇のかかるものになります。

 しかし、繋維機雷では、先にご説明したその構造・構成をご覧いただけば、敷設艦船から計画に従って連続して次々に投入していけば良いことはお判りいただけると思います。 自働繋維器が出来てからは、特にそうです。

 したがって、1個だけの機雷を敷設するならともかく、1隻で複数個を連続して敷設するなら “線状” になるのは当たり前 のことです。

 そして “面” を要求するならそれは複数の敷設線をもって する以外には敷設の方法がないことは、これも言わずもがなです。

 もちろん “面” と言っても、敷設海面が (多分この筆者の頭にある) 広い “四角” や “楕円” になるわけではありません。 そんなことをしても効果は上がらず、機雷が無駄になるだけです。

 “厚い帯状” でなければなりません。 要するに待ち受け幅が広くなるように、です。 当然のことです。 この著者は言っていませんが。

 また、線状にする以上、機雷の効果を考えれば、その敷設間隔が適切でなければならないことも当たり前です。

 別に何もこの著者が判ったような振りをして “小田の結論は” とか “イワノフの回答は“ などは全く言う必要もないことで、誰でも考える “常識” です。

 これ ↓ は旧海軍が旅順港沖に敷設した全繋維機雷と擬似機雷の敷設実績ですが、これが小田の考えた “線状敷設” の実績だとでも?

ryojun_minelay_chart_02_s.jpg

 この著者が機雷そのものについてはもちろん、機雷戦、機雷敷設というものの実態を全く知らない、全く判らないで書いていることが明らかです。

 そして小田喜代蔵という人物についてさえ、まともに調べていないことも。

 次回は、この小田喜代蔵に関連して、更にこの 『別宮暖朗本』 のトンデモ話しの傑作の一つ、「ペトロパブロフスク」 撃沈のお話しです。
(この項続く)

------------------------------------------------------------

次へ : 「機械水雷 (機雷) の基礎」 (7) − 「ペトロパブロフスク」 撃沈 (前編)

前へ : 「機械水雷 (機雷) の基礎」 (5) − 小田喜代蔵と機雷 (前編)


posted by 桜と錨 at 18:06| Comment(4) | TrackBack(0) | 海軍のこと
この記事へのコメント
非常に詳しく調査されていて勉強になります。
シロウトの素朴な疑問なのですが、本図のように
綿密に機雷が敷設されていたのだとすれば、
無理に旅順攻撃をせずとも港内の軍艦を封じ込める
ことが出来たように思うのですが、なぜ陸軍は
無理をして旅順攻撃を行い、また海軍は攻撃を
急がせたのでしょうか?

この機雷原は突破されうるものなのでしょうか?
Posted by 今井 at 2018年04月29日 14:40
今井さん、こん**は。

>機雷原は突破されうる

結論から言えば 「イエス」 です。

図面上では多いように見えますが、大変に広い海面に一般的には約100m程度の間隔で敷設していきますが、個々の機雷に通過艦艇がピンポイントで当たる必要があります。 つまり各敷設線も線ではなく、個々の機雷のポイントであって隙間だらけということです。

しかも、レーダーもGPSも無い時代の夜間に、小型艦艇が当該図にあるようにそれほど正確に敷設できたわけではありません。

そして敷設した機雷が正常に作動しない、あるいは繋維索が切れて浮遊機雷となるものも決して少なくありません。

また二号機雷の自動繋維器は深度索が7m、つまり “敷設時の潮位” の海面下7mです。 したがって、艦艇が通過時に適切な深度であるかどうかはその時次第ですし、深さ7m未満の艦艇なら接触しないわけです。

それにロシア海軍側も小型艦艇や舟艇を使って機雷掃海を実施しておりますので、適時ある程度の掃海水道は確保していたと考えられます。

もし危険を承知で出撃してきたとしても、何隻かに被害を与えることはできるかも知れませんが、それが何隻になるかはそれこそ神のみぞ知ることであって、決して全てにはなりません そもそも、機雷が作動した、掃海した、あるいは大型艦艇が通過したポイントには機雷はありませんから。

したがってこれらの要素を考えれば、ロシア側に与える心理的な効果はともかくとして、実質的な旅順艦隊の “完全な” 封じ込めは不可能なことといえます。


ですからバルチック艦隊来航に備えて内地で本格的な修理を行う必要があった連合艦隊としては、出来る限り早期に旅順艦隊を “物理的に排除” して脅威を取り除く必要があったのです。

例えば 「三笠」 などは黄海海戦で損傷した後部主砲塔などはまだそのままでしたから。

なお、本ブログでの本ページを含む一連の連載は本家サイトに纏め直してありますし、また本家サイトには旧海軍の各種機雷の詳細データも公開しておりますので、ご参考にして下さい。

Posted by 桜と錨 at 2018年05月01日 12:39
桜と錨さま

お忙しいところ大変ご丁寧にお教えいただきまして、痛み入ります。

小生は先日、出張の合間に旅順に行きまして、203高地や東鶏冠山北堡塁などを見学して参りました。帰国後に知人から別宮氏の旅順戦本を紹介され、読んだ方が良いと言われました。

知人の感想を聞く限りでは、小生の現地を見た感覚や事前知識と整合しないためインターネットでいろいろと調べていたところ、貴ブログにたどり着きました。大変勉強になり、またご丁寧なご説明を頂き誠に感謝しております。

小生の感覚では、別宮氏や司馬遼太郎氏など、後知恵でなら何とでも言えるという事と、素人は素人の考えた分かりやすい(嘘の、あるいはでっち上げの、あるいは誤解の)ストーリーを信じてしまうものだと痛切に感じております。

物書きの人は、素人に面白がってもらわないと商売にならないので、故意であってもそうでなくても、分かりやすくて面白いことを書かざるを得ないのでしょうね。。。

後段、小生の感想と愚痴のようなものになり恐縮です。ご教示を頂きまして誠にありがとうございました。重ねて御礼申し上げます。
Posted by 今井 at 2018年05月01日 17:29
今井さん、こん**は。

>203高地や東鶏冠山北堡塁などを見学して

それは大変貴重な経験でしたね。 私も2度ほど行きましたが、やはり現地に行くと、こんなところだったんだと実感できます。

>別宮氏や司馬遼太郎氏など、後知恵で

司馬氏は分からないなりも真摯に調べて丁寧に書いておられますので、「坂の上の雲」 にしても歴史小説として大いに好感をもって楽しめますね。

しかしながら別宮氏は全く調べもせずに妄想による捏造を羅列しており、その上で旧海軍が史料を改竄しただの、官僚の作文だ、などとの暴言を吐いています。 あまりにも酷い。 これが私の記事の連載を始める切っ掛けでした。

Posted by 桜と錨 at 2018年05月01日 18:55
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/34150048
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック