2009年11月29日

「203地点ニ敵ノ第二艦隊見ユ」 (後編)

 続いて、日本側の史料・文献からです。

 まず、旧海軍の公式戦史である 『極秘明治378年日露海戦史』 の記述から。

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 次は、日本海海戦初日から3日後 (!) の5月30日付である当の 「信濃丸」 の 「戦闘概報」 から。

shinano_btl_rep_02_s.jpg  shinano_btl_rep_01_s.jpg

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 午前2時45分に病院船 「アリヨール」 の燈火を発見し、近接、確認の後、敵発見を発信します。 その発見電の第1報及び第2報の発信時刻が書かれていませんが、成川艦長が4時40分過ぎ頃に第1報の発信を命じていますので、その直後と考えられます。

 「三笠戦時日誌」 の5月27日の第1ページです。 「三笠」 では 「信濃丸」 の発信電が直接受信できておらず、「厳島」による午前5時5分の転電が第1報となったことが記されています。

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 そして、第6戦隊の 「戦闘詳報」 に添付された 『第六戦隊無線電信発受信傍感報告』 から。

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 「厳島」 の転電では地点符号が抜けていましたので、何度もそれの問い合わせのやり取りがあったことが判ります。
 
 その他、証拠史料を示すならそれこそ雲霞の如くありますが、先の公式戦史のみならず、戦闘詳報や発受信電記録などの残された当時の “あらゆる史料” において 何等の齟齬もありません。

 当然のことですが、この著者のいう午前1時15分の 「信濃丸」 の敵発見電なるものの発信はもちろん、受信・傍受の記録はありません。

 これを要するに、日本側及びロシア側の双方 のものを合わせても、「信濃丸」 の敵発見報告第1報の発信時刻を 5月27日午前4時45分前後 とすることに 何の疑いもありません。

 その上で、この著者はこれですか。

 『公刊戦史』 もロシア側の 『露日海戦史』 も同様であるが、デスクワークに専念する少壮官僚の作文であって、実際的な問題を精神主義的なことに置き換えることが多い。 連合艦隊が日没による砲戦時間の終了を考慮すれば、早めの出撃をなすべきだった、との批判にそなえ、信濃丸の通報時刻を 『公刊戦史』 では、わざと遅らせたものだろう。 (p291)

 はっきり言ってもうここまで来ると、この著者の人格を疑います。

 (いえ、人格を疑う内容は、他にもこの 『別宮暖朗本』 の中には沢山あります。 それらは今後とも引き続き “気ままに” ご紹介していきます。)

 お粗末を通り越して、余りにもひどい。 こんなものがよく出版できるものと。

★  ★  ★  ★  ★

 ちょっと考えてみて下さい。

 この著者は、「203地点に敵の第二艦隊見ゆ」 の発信電が午前4時50分前後でなく、午前1時15分だと言っています。

 とすると、バルチック艦隊は 午前4時50分頃には203地点より30マイル以上先に進んでいる ことになります。

 これが 何を意味するか お判りでしょうか?

 そう、連合艦隊が鎮海湾や竹敷から出撃して、バルチック艦隊と会敵するまでの位置や時刻の関係が総て変わってきてしまいます。

 と言うことは、連合艦隊の “全艦船” の刻々の位置や時刻が総て変わってくると言うことです。 各艦・隊司令部を始めとする総ての 「戦闘詳報」 記載の時刻、位置、そして航跡図などが現在残されているものと違うということです。

 時刻と位置が変わると言うことは、全艦船の針路、速力、航程なども総て変わる、ということはお判りいただけると思います。

 そして、変更を要するのは 「戦闘詳報」 だけではありません、連合艦隊各司令部・全艦艇や軍令部を始めとする総ての電報受信紙、総ての記録紙などもこれに合わせなければなりません。

 これはバルチック艦隊側の記録にも総て同じことが言えます。

 逆に、「信濃丸」 の報告位置を、午前4時50分頃の 「203地点」 でなく、午前1時15分のバルチック艦隊の位置だとしても、上記のことは同じことが言えます。

 もしこの著者が言うように 「わざと遅らせた」 ものであるなら、何れの場合でも、そのためには現在知られているこれら 総ての史料が何等の齟齬もなく改竄されていなければならないはず です。

 しかしながら、現在に残された総ての史料は、午前4時50分頃に「203地点」、で何の疑問も齟齬もありません。 この著者の 「ロシア側記録では1時15分ごろとなっている」 と言う “たった一つ” のもの以外は。 ( もちろん、そのようなものが存在するとして、ですが。)

 これをこの著者はどのように言い訳するつもりなのでしょうか?

( もし改竄が可能だと思う方がおられるなら、「信濃丸」 の航跡図だけでもいいですから、やってみて下さい。 そして深夜の午前1時15分に灯火管制をしたバルチック艦隊を、どのようにしたら発見できるのかを説明してみてください。 加えて、その 「信濃丸」 の発見電を受けて最初に触接した 「和泉」 の対応をどう説明するのかを。)

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 「信濃丸の通報時刻を 『公刊戦史』 では、わざと遅らせた」 の “たった一言” で、どれだけのことが関係してくるのか?

 海戦というものが、いや海、船というものが “少しでも” 判っているならば、この著者の言うような “寝言” “戯言” は決して成り立たないものであることは、すぐに判ることです。

★  ★  ★  ★  ★

 『別宮暖朗本』 の著者は、「ロシア側の記録」 について何の証拠も示していないのですが・・・・

 「1時15分」 「バルチック艦隊発見電」 という文言で、“ハタ” と気が付きました。 まさかこれのことではないですよね?

 前編でご紹介したクラド海軍大佐著とされる 『最期戦記』 の中にある記述です。

russo_0526_rep_01_s.jpg

 これと同じ内容が 「1時頃」 という表現でロシア海軍公刊戦史にも出てきます。

russo_offi_his_p83_s.jpg

 この著者はこれを勘違い?

 これって、「27日午前1時15分」 ではなくて、「26日午後 1時15分」 なんですが (^_^;  しかも、「信濃丸」 発信電ではなくて、単なる何か判らない無電を誤認識したとされているものです。

 いくら何でも、まさかねぇ・・・・ とは思いますが、この著者がその記録なるものの根拠を示していない以上、既に知られているデータでは これしか考えられません。

 もしそうだとしたら、これはもう “お粗末” どころでは済まされませんが・・・・

 この著者には、明確な証拠史料の提示を求めます。 いや、こんなことを書いて出版する以上、始めから示す責任があったのです。

(この項終わり)

(注) : 本項で引用した各史料は、ロシア側刊行物以外は、総て防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。 なお、赤線は説明の都合上管理人が付けたものです。

posted by 桜と錨 at 16:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと
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