2009年11月04日

「対馬か津軽か」 − 連合艦隊の動揺

 砲術関係でその基礎の解説に合わせて、例の 『別宮暖朗本』 の誤りをご説明しておりますが、既に書いてきましたとおり、この本は砲術や水雷術のみならず、海軍や艦艇は勿論、戦術や戦略、戦史にいたるまでありとあらゆるところで誤りがあります。

 砲術以外についてもこれから “気まま” にご紹介していくつもりですが、取り敢えずその一例として標題の件を。

 皆さんご存じのとおり、本件は、日本海海戦が生起する直前の時機になって東郷平八郎や連合艦隊司令部の参謀達が、バルチック艦隊が対馬海峡に来るのか、それとも津軽海峡に回ったのか、そして聯合艦隊が鎮海湾で待機を続けるのか、それとも北海に向かうべきか、でその “判断に悩んだ” ことについてです。

 このような日本海海戦に至る重大な事項について 『別宮暖朗本』 は約2頁にわたって全く根拠のない誤りを書き連ねております。 私はこの本の誤り箇所にマーカーペンでマーキングをしてチェックをしておりますが、当該頁はそのために真黄色になってしまっています。

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( 管理人所有の「別宮暖朗本」より当該頁 )

 当該部分から幾つか拾って、その誤りを具体的にご説明しましょう。

 野村は密封命令 (封緘命令) についても論じている。 津軽海峡大島付近に終結し、その後 「北海」 に向かうという命令が存在したことをもって、「動揺」 の根拠としている。 だが、これも理由がない。 参謀が次の手を策案し、密封命令とするのは普通のことであって、日常業務である。 実行されたか否かが、戦史であって、歴史なのである。
(p273) (p282) 

 その 「封密命令」 がこれです。

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 「聯隊機密第三七三号」 の機密文書の発簡番号が採られており、当然ながら聯合艦隊司令長官名で出されています。 この 「連合艦隊命令」 は、開封されて実行されたかどうかには関わらず、発簡措置が採られている以上、文書処理上は後で無かったことにはなりません。 したがって、参謀が自分の腹案を封密命令として勝手に送ったなどは旧海軍では絶対にありえません。

 陸軍のことはともかくとして、海軍においては指揮官抜きにして (了解を得ずに)、参謀がそのようなことは絶対にしないという組織であり、慣習・躾です。 それは海軍が 「指揮官」 というものをいかに重要視するか、ということを理解していれば判ることです。

 史料をキチンと調べてさえいれば判ることですが、旧海軍では、参謀などの担当者同士で調整の必要がある時は、その担当から担当者宛にその名前で文書や電報を出します。

 例えば、聯合艦隊参謀長から軍令部次長へ、聯合艦隊参謀から軍令部参謀へ、あるいはその逆、といった具合で、参謀が “無断で” 勝手に指揮官の名前を使うことは絶対にありません。

 それが、旧海軍、そして今日の海上自衛隊へと伝わる幕僚業務のやり方です。

 この封密命令が5月25日に出されたこと、当日司令長官・司令官が「三笠」に参集したこと、そして主隊の北進に先だって給炭船・給水船を先行させたことは、当日の 「聯合艦隊戦時日誌」 に書かれています。 そして同時に、その判断措置について大本営 (軍令部長) に報告したことも記載されています。

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 「戦時日誌」 というものは、参謀や乗組士官等のメモや備忘録などではなく、部隊としての “公式記録” です。 したがって、そこに記載された内容に関する事をそれぞれの指揮官 (即ち、司令長官、司令官や艦艇長等) が承知していない、などということはあり得ません。

 しかも、この封密命令が実際に送達されたことは、例えば次の 「三須第1艦隊司令官戦時日誌」 によっても裏付けられています。

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 かつ、この日誌によっても、25日には 「三笠」 に各司令長官、司令官が集められ、北進についての指示があったことが明らかです。 でないと、その後に出された 「聯隊機密三八〇号」 が何を意味するのかや、炭水の増載指示が北進に備えてであることを、麾下部隊が判るはずはありませんから。 そして封密命令の内容が北進であることがどうして判るのでしょう?

 参謀が司令長官に断らずに勝手に出したもの? これは普通のことで、日常業務? 一体何を根拠にこんなことを書いているのでしょうか。 もし旧海軍の組織運営がそうだと思っているならば、キチンとその証拠を示して書くべきでしょう。

 少なくとも、それが旧海軍における “日常業務” だと言い切るならば、この時以外の (そして日露戦争時以外の旧海軍において) その様な 「封密命令」 の実例を史料と共にいくつか提示して、証明してもらいたいものです。

 「別宮暖朗本」では総てこの調子で、大変歯切れのよい文が羅列されていますが、その中で自分の主張についてはその確たる証拠となる具体的な史料は何等示されていません。 全編そういう論調なんです、この本は。

 25日に封密命令を発簡し、大本営に報告し、北進用の石炭を搭載し、給炭船・給水船を先行させた。 これが連合艦隊司令部の 「動揺」 であり、実際の 「動き」 でなくて何なんでしょう?

 このことの裏付けとして、25日の 「敷島戦時日誌」 でも連合艦隊司令部の北進の意図が麾下部隊に対して出されていたことが判ります。

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 また、日本海海戦当日の27日の 「三笠戦闘詳報」 では、増載した石炭が北進用のものだったと記載されています。

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 日本ではよく起きることだが、本部人間の軍功誇りというのがある。 東京や広島の大本営でデスクワークをしていた参謀は、軍功をあげることはできない。 軍令部の参謀が 「連合艦隊が動こうとしたが俺が止めた」 と主張する根拠が交換電報であるに過ぎない。 それでいくばくかの軍功を主張したいわけである。 (p272) (p282) 

 東郷の裁可をとったわけではなく、連合艦隊司令長官名で東郷司令部の幕僚と軍令部の参謀が、「津軽海峡か朝鮮海峡か」 と論争し、ヒマつぶしをしたものにすぎない。 経験がない若手参謀というのはどうしても、石炭残量・機雷・航海上の問題など実際のことを考慮できず、蜃気楼のような議論を展開しがちである。
(p272〜273) (p282) 

 旧海軍及び海軍軍人に対する根拠のない極めて卑劣な暴言であり、捏造であり、脳内妄想以外の何ものでもありません。 よくこれだけの事を書け、また出版できるものと思います。 よく判りもせず、またよく調べもせずに こんな事を書いて出版しては絶対にダメです。 許されざる行為です。

 翌26日の 「聯合艦隊戦時日誌」 からです。

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 軍令部次長からバルチック艦隊が運送船を分離し、これが上海に入港したとの情報が入り、“実に危ういところで北進を延期した” のかが判ります。 27日の日本海海戦生起を考えれば、まさに紙一重になるところでした。 これが史実であり、真実です。

 そして、明確に 「今夕の出動を見合わす」 と言い切っています。 また前日に先行させた給炭船・給水船を止めたと言っています。 このことからしても、25日に出した北進の意図が、単なる幕僚の腹案レベルでは決してあり得ないないことが明らかかと。

 ところが、「幸運な男」 東郷平八郎が率いた連合艦隊が、動揺したと主張する人物が絶えない。 最近における代表例は野村實で次のように書いている。
(中略)
 以上の表現は全面的に誤っている。 なぜならば、「連合艦隊の動揺」 と表現するには東郷や幕僚の心の中ではなく、実際に艦隊が動いたことを示さねばならない。 だが、「連合艦隊が鎮海湾から動かなかった」 が単純な史実であって、真実なのである。 (p272) (p281〜282) 

 東郷や幕僚 (の心の中) が動揺したというのも疑わしい。 (p272) (p282) 

 実行されたか否かが、戦史であって、歴史なのである。 (p273) (p282) 

 鎮海湾から動かなかった理由をまず検討すべきであって、密封命令発見 = 「新資料」 というならば、連合艦隊が動いたことを示さねば、史実に関連するものとしては 「新」 にはならない。 (p273) (p283) 

 極めておかしな主張ですね (^_^)  まるで小学生の言うような “屁理屈” にしか聞こえません。

 この著者の言う “連合艦隊が動いたこと” とは一体どういうことを言うのでしょう? 「三笠」 以下の聯合艦隊主力が実際に鎮海湾を出て、北進することを言うのでしょうか?

 もしその意味なら、それはもう既に “動揺” とも “悩み” とも言いません。 北進の “決断に基づく実際の作戦行動” と言います。 悩んだということと、決断し行動したこととは、全く違います。 そんなことは言うまでもないことです。

 更に言うならば、上記で示した25日のことをもってすれば、明らかに聯合艦隊は動きました。 もし実際の “組織の運営” というものが少しでも理解できている者であるならば、これだけのことがあれば、それを称して “聯合艦隊が動いた” と言うんですが?

 25日の聯合艦隊の状況を考えるならば、それは東郷平八郎とその参謀に “判断の悩み” があったからこそ、それらの措置になり動きになったのです。

 これが “根拠に基づく疑いもない史実であり、真実” です。

 これだけの史料・事実が揃っているのですから、もっと素直に、先入観無く、冷静に、かつ客観的に、それらを見るべきでしょう。

 「歴史評論家」 と自ら名乗る人物の著書にしては、あまりにも根拠のないお粗末な主張です。 しかも、野村實氏は勿論、旧海軍軍人を侮辱してまで。

 もっとも、上に示した証拠も総て “日露戦争後になって旧軍人が捏造したものだから信用できない” ぐらいは平気で言いかねませんね、この著者は。

(注) : 本項で引用した各史料は、総て防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。 なお、赤線は説明の都合上で管理人が付けたものです。

posted by 桜と錨 at 18:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと
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