合戦準備以後の軍艦旗の掲揚の例は公表された有名な写真にいくつかありますのでここでご紹介します。



この様に後部で戦闘に邪魔にならない位置に設けられた旗竿に掲揚されています。
そこで戦闘旗ですが、残念ながら当時の写真で駆逐艦が戦闘旗を掲げているものを私は見たことがありません。 戦闘時しか掲げませんので、当時のカメラの状況を考えるなら、まあしかたのないことかもしれません。 今次大戦中のものでさえ少ないのですから。
しかしながら、戦闘旗は「大檣頭」に掲げますので、駆逐艦や水雷艇などの場合は前檣 になります。 当然ながら、隊司令が乗っている場合には、ここにその 隊司令旗と戦闘旗が併揚 されることになります。
因みに 「大檣」 (メインマスト) とは、その艦で最も 「高い」 檣楼のことで、同じ高さの檣楼が2つある場合は 「後檣」 のことです。
ただし、戦闘旗の掲揚が規則上明文化されたのは昭和7年の 『海軍旗章令』 の改定からで、改定前及びそれ以前の 『海軍旗章条例』 にはありません。
明文化しなくとも「軍艦」にあっては当然のこととされていたためと考えますし、このことは実際に残された写真や文書からも掲げていたことが証明されているわけですが。
(追):
HN「出沼ひさし」さんより上記について、『日本海軍艦艇写真集 駆逐艦』 (呉市海事歴史科学館編 ダイヤモンド社) 中の 「暁」 の写真に戦闘旗が掲げられているように見えるものがある、とのご指摘をいただきました。
当該写真と同じものが ↓ です。

確かに軍艦旗の光線のようなものも微かに確認できますし、当該檣頭に掲げる旗は限られますので、ほぼ間違いないものと考えます。
ただし、これが戦闘旗であるとすると疑問が無いわけではありません。 それは何時、誰が撮したのか? という点です。
艦尾甲板上には 「聯隊機密第350号」 に基づく連繋機雷 x 8組らしきものが搭載されておりますので、5月17日以降の写真であることは間違いないでしょう。
日本海海戦においては、「暁」 の戦闘詳報では次のとおりとなっています。
5月27日
午前6時30分 竹敷出港
午前8時50分 「浅間」 以下の奇襲隊に合同
午前9時 奇襲隊と分離し、第一駆逐隊司令の指揮下に入る
午後1時15分 戦闘旗を開く
午後8時30分 第一駆逐隊と分離、連繋機雷襲撃のための単独行動に入る
午後9時30分 水雷艇と衝突し船体損傷
午後10時40分 襲撃断念、修理のため竹敷に向かう
5月28日 午前8時10分 竹敷入港、修理に着手
5月29日 午前9時15分 応急修理完了、第一駆逐隊司令の指揮下で出港
5月30日 午前6時30分 竹敷入港
となっていますので、5月27日の戦闘旗掲揚中の撮影とすると、この荒天下で何時、誰が撮影したものなのか? 最も考えられるのが 「浅間」 からなんですが、奇襲隊分離後もこんな近くにいたのでしょうか?
( 余談ですが、当該写真集のキャプションでは 「明治38年5月28日 日本海海戦に参加するために進撃中。 まもなく荒天のために待避した。」 とありますが、これが全くの誤りであることは上記の行動からも明らかです。)
HN 「出沼ひさし」 さん、ありがとうございました。
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戦闘旗について (1) :
戦闘旗について (2) :
不鮮明な写真なので「戦闘旗」ではないかもしれませんが。
うおっと、その写真がありましたね。 確かに前檣トップは戦闘旗のように見えます。 が、そうすると疑問も。 この写真、何時、誰が取ったんでしょうねぇ、あの時の状況で。
ということで、記事の方に追加をいたしました。
ありがとうございました。
いや、それはそれで難しいですよね。
たまたま大型艦の脇を通った時に撮影された?
そうなると調査はお手上げですね。
まあ、この写真に限らずキャプションはデタラメが多いし、撮影データと記録を照らし合わせると謎な写真も多いですよね。
第2次大戦中の写真なんて、米軍撮影のものが一番撮影データに信憑性があります。