2009年10月07日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その28

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 死刑執行人(3)

 私達はこの爆撃行で、戦争の凄惨さを知り、強烈な衝撃を受けた。 眠れる大国として侮られた中国。 制空権もなく、専守防禦の戦闘であったが、闘志満々の恐るべき相手であったのである。

 私は日本人の一人として、日清日露戦の生存者達から、安易な日本の戦勝と手柄話を誇大に聞いて知らず識らずのうちに中国人を蔑視し、中国との戦争は演習の連続くらいにしか考えていなかった。

 それは、世界に冠たる日本艦隊と自負し、航空軍備の不備を神秘主義と事大主義で隠して、世界の現実を追求しなかった日本海軍の指導者の欠陥でもあった。

 そして、第二次南京攻撃を再開することになったのである。 10月10日、第二次攻撃は、戦訓を生かして江上から下関を斜単横陣で奇襲し南京市上空を超低空で航過した。 命中精度は少し落ちたが、被害は零であった。

 10月12日、第三次攻撃が行なわれた。 江上で単縦陣となり、斉動で南京市に突入した。 斉動点が中山陵の東方であった他は、二次と同じであった。



 この斉動直後のことである。 高角砲弾幕が右前方に見えていた。 一中隊の第二小隊三番機が、弾幕を回避して大きく北方に旋回し江上に去ったのである。

 私の前を去って行くその飛行機を見たが、間もなく見失った。 その機も私達を見失ったらしく、公大に着陸するまで編隊に加わらなかった。

 飛行場で江草指揮官は彼に注意した。 烈しい叱責ではなかったが、寸分の放恣を許さない鋭い注意であった。

 10月下旬、第四次攻撃で、彼はまた同じ回避をしたのである。 公大飛行場に帰って、司令官に戦闘報告をした後、江草大尉は彼の搭乗員徽章をその場で剥ぎ取った。 そして、一言も言わなかった。

 彼の徽章が剥がれ、ビリッと音がした時、私は私の徽章を剥ぎ取られたようにぎょっとした。

 私もあの弾幕は恐ろしい。 弾幕の爆風で飛行機がぐらっと揺れ、カッという金属音が耳を劈く時、私の胃袋はキュツと締まり、暫くして背中が冷たかった。 恐らく私の顔は蒼白となり、全身は震えていたであろう。

 回避しても間に合わないのは解っていても、どちらかにハンドルを押えた。 恐らく彼もそうしたのであろう。 ここまでは私と彼は違わない筈だ。

 忍耐力などの問題ではない。 教養知識、責任観、義務観、任務観もその瞬間には関係ない。 彼と私とはどこが違ったのであろうか。

 彼のあの時の操縦操作は、ハンドルを左に倒し続いて左の足を踏んだ。 私はハンドルを倒したが、左の足は踏まなかった。 左足を踏めば左に旋回し、左後方の、部下と顔が合う。 私にはそれができなくて足を踏まなかった。

 私の足は私の頭脳から 「足を動かすな」 と予め命令を受け、筋肉が動物的に動かないよう習慣づけられていた。 それは出発の前に、また出発の前夜、ベッドに横になっている時にも繰り返し私自身が言い聞かせていた。 それが彼と私の違いだった。

 彼はまだ18歳の少年であった。 末だ童顔の残る少年であったのだ。 心の準備なしに戦列に加わったのであった。

 日が投してから、私は飛行場の隅に彼を呼んだ。 彼は泣いていた。 自分の頭を自分で叩き、身も世もない泣きようであった。

 上海の街の煙突に、赤いランプが一つ瞬いていた。
(続く)

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/32737015
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック