2009年10月06日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その27

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 死刑執行人(2)

 当時、日本の急降下爆撃法は、全機が指揮官先頭に一列縦隊となって予定進入点に次々と占位して急降下に入る方法であった。

 18機が、空中の特定の一点から順次降下進入するわけである。 敵がもしこの特定点に弾幕を集中すれば、味方は敵弾に当るために進入するような結果になる。 (アメリカのヘルダイバーも緒戦時にはそうであった。)

 こんな爆撃法は演習訓練中のいわゆるお座敷水練と同じであって、敵弾雨飛の中の爆撃法とは遠く隔たるものであるが、私達は初陣であり、敵を軽視した騎兵であったからこれをやったのだ。

 敵の弾幕が進入点に集中され始めた。 その中に一中隊の各機が次々と進入して行く。 5機目が続く犠牲となって撃墜された。

 弾幕に隠れる前続機が私には気になった。 私の番が直ぐ来るのだ。 悪魔のように弾幕が近づく。 ままよ23歳の命、母の顔が脳裏をかすめた。

 後続機を見ると、泰然としてついて来る。 敵陣を見ると、バッハッと敵高角砲台の閃光が見える。 毒蛇の舌のようだ。

 第二中隊長は、俊敏な江草大尉であった。 指揮官坂本機から数えて十機目である。 彼は2番目の犠牲が出た直後、90度左に変針して弾幕を回避し、緩降下接敵を始めた。 一中隊の被害を見て、咄嗟に戦法を変更したのである。 私達は懸命に追尾した。 敵の弾幕は右前方に離れた。

 暫くすると、敵弾幕が私達を追尾し始めた。 江草機を狙った弾が、私の小隊の後方で炸裂する。 私は全速で江草機に近接する。 平時訓練の隊形にはこんな形はなかったが、そんなことは言っておられない。

 私は列機に 「もっと前に出ろ。 早く私と並べ」 と命ずるが、手先信号だからなかなか通じない。 列機の後方に弾幕が接近してくる。 列機は私の翼だけ見て編隊飛行をしているから弾幕を見ていないが、私は列機の後方の弾幕を見ながら飛んでいるのだ。

 「前に出ろ。 急げ」 と何回も信号するが、列機は相変らず悠々たるもの! 南京市上空を通過する五分間が何と長かったことか。 敵高角砲の情報を軽視し、敵を侮って死地に飛び込んだ愚かさ!

 歯を喰いしぼって死地から脱しようと焦った。 エンジンは極限の赤二十。 まだ帰り道を2百浬飛ばねばならなかったが、死地を脱し得ずに帰還はない。 限界までエンジンを酷使した。 地上の中国兵が見たら、悠々と首都上空を飛ぶ東夷の賊めと目に映じたであろうが、私達も必死であった。

 幸いに、弾幕は最後まで私達二中隊を狭叉しなかった。 やっと下関を60度の眼下に見て急降下に入った。 今度は物凄い十三粍機銃である。 4、5か所から射ってくる。 曳痕弾が赤色のアイスキャンディーの連鎖のように見えた。

 6百米で引き起こし揚子江上に逃れ、左旋回で集合すると私達の中隊は無事であった。 死地を脱したのだ。 江草大尉の臨機の戦法が効を奏したのである。

 しかし、着陸後調べたところ、全機に十数発の弾痕があり、江草機の操縦索は切断寸前であった。 私の飛行機は車輪タイヤを射ち抜かれ、着陸して減速した時、右に回され左翼を接地して機体を小破した。 これが第一回南京攻撃であった。 坂本大尉以下4名が戦死し、全機被弾したのであった。

 坂本大尉は大村基地を出発する前夜 (戦死される、3週間前になる)、長崎市に泊った。 日本に生まれて、初めて出征する前夜である。 彼は浪曲が大好きであったので、その晩長崎で心ゆくまで聞いた。 その時の浪花節語りは、日本一の名人で、天中軒雲月であったという。 彼女の曲が坂本大尉の送葬の符となったのであった。
(続く)

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