2009年10月05日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その26

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 死刑執行人(1)

 12年10月上海周辺の敵は羅店鎮 (ろうてんちん) (上海の西北30浬) 方面に後退した。 その羅店鎮も、或る夜、日本の斥候兵が間違って城内に入ったところ中国兵は一人もいないことが解ったので、その翌日占領された。 そして、私達海軍の陸戦協力は終り、南京攻撃が再開されることになった。

 ここで、10日前の南京攻撃を回想してみよう。

 この攻撃は日本海軍の艦上機による都市爆撃の第1回目であった。 編成は、第十二航空隊の主力部隊艦爆18機。 総指揮官兼第一中隊長は坂本大尉。 第二中隊長は江草大尉。 私は二中隊の三小隊長だった。 10月3日0800、上海公大を発進し揚子江に沿って西進した。

 その昔、西暦702年文武天皇の時、日本の遣唐使が屋久島を経由して支那海を横断し、揚子江を遡江して、大運河の起点揚州に入港したのが遣支南方航路の始まりであるが、その揚州を遥か北に見ながら、悠久五千年の文化を秘める揚子江上を西進したのであった。

 私は後尾小隊長であり航法の責任もなかったので、悠々として盤古の神を思い、蘇州の詩情を偲び、茫漠たる黄土大平原を俯瞰して愉快な気持であった。 いい気なものだったのだ。

 わが帝国陸軍が上海に上陸した今は、中国四百余州は秋風枯葉を巻くように席巻されるだろうという気持があったし、中国航空軍備などは私達の鎧袖一触で微塵に砕けるだろうという自負心があったから、鼻歌まじりの爆撃行であったのだ。

 攻撃法は、南京東方から南京市上空に進入し、市内を航過して南京市西方隅下関 (しゃーかん) の高角砲陣地を爆撃する計画であった。

 当時の私達の常識として、中国の高角砲の命中率は零に近いものだと思っていた。 それは、昭和11、2年頃の日本艦隊の高角砲が、最新式の射撃盤を使い練達の砲員が配置されていながら命中率は零に近い成績であったから、中国の高角砲もそのとおりだろうと思ったのだ。

 ところが、予想は全く違っていた。 この時の南京市の防空砲火の威力は、測的はドイツ式の測的方式であって、南京市の周辺3か所に測的所を設け、三角ベースを一元的に運用し、高角砲台は市内随所にあって、砲約100門射距離は高度5千米 (九四艦爆の実用上昇限度約4千米)、機銃は無数で自動追尾式であったという。 現代と比較しても電波利用を除けば大差はなく、当時の日本海軍の比ではなかったのである。

 こんな恐るべき敵が待っているとも知らず、末代の古都 「建業」 (南京) 上空に現われた私達こそ哀れというも愚かであった。 2千8百米で進入した私達に対し、敵高角砲の初弾幕は約3千米、射速は5秒間隔で、一幕約30発であった。 あっと驚いても既に遅く、全機死地に入ったのである。

 驚きは現実の被害となって現われた。 第4弾幕で指揮官機が直撃され、流星のように消えて行った。 坂本以文大尉の戦死である。 総指揮官を失っても、第一中隊はそのまま直進した。 後年、南昌飛行場に敵中着陸して、敵機に火を付けた小川正一中尉が一中隊の指揮をとり、計画どおり弾幕を縫って進撃した。
(続く)
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