2009年10月02日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その23

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 闘  魂 (1)

 昭和十二年九月下旬、日本陸軍は、黄浦江が揚子江に合流する直ぐ近くに 「戍 (ぼ) 基地」 という飛行場を造り、陣地戦の支援のための重軽爆部隊を結集した。 私達海軍航空部隊の公大飛行場とは目と鼻の位置であった。

 陸軍からの強い要請で、海軍部隊も陸戦協力を始めることになり、陸軍と情報交換をするため私は戍基地に連絡に行って戦線を視察した。 陸軍の説明によると、塹壕戦線は敵味方が五十米以内に対時して戦うこともあるし、時には格闘戦もあるから、爆撃誤差を五十米以内に収めなければ味方を殺す恐れがあるということであった。

 当時命中精度世界一と言われた日本海軍急降下爆撃隊でも、投下高度六百米では誤差を五十米以内に収めることはできなかった。 止むを得ず投下高度を百米以下とし、爆弾信管を遅動0.五秒で実施することにした。 信管遅動をかけないと、自分の落とした弾で自分の飛行機を傷つけるからであった。

 九月二十九日、私達の陸戦協力が始まった。

 初めのうちは、塹壕戦がよく解らない。 日本兵と中国兵の区別もつかない。 ただ、白い布で方向距離を示された点に爆弾を落とすだけだった。 そのうちに塹壕戦に慣れてきて、地上の格闘戦がよく解るようになった。

 私達が爆弾を持って塹壕の上を飛んでいるうちは、日本陸軍が手榴弾を投げ、突撃して敵陣を占領する。 私達の爆撃が済むと敵は逆襲して来て格闘戦の後陣地を奪回する。 こんな繰り返しが続いているのであった。

 そのうち、日本の老兵が、中国の青年兵士に追われて逃げている姿が見えるようになった。 日本の老兵というのは、陸軍一〇一師団の予後備兵である。 私達の父や兄と同年の、日本に帰れば一家の家長達が戦っているのであった。

 一方、中国の塹壕兵達は益々増長してきた。 彼等は、私達が落とした爆弾の爆煙が消えやらぬうちに、塹壕から這い出して来て飛行機を狙撃するようになった。 私達は、七.七耗機銃を持っていたが、それは塹壕の中までは届かないことを彼等は知ったのだ。 塹壕には凹凸があるから、機銃なんか恐くないのであろう。

 日本軍の戦線に焦りが見え始めた。 私達も焦った。 年老いた父や兄が、若い中国兵に逆襲されて逃げるのを見るのはたまらない。 偵察員達は、後席に手榴弾を積んで行くことを提案した。 操縦員は、六十瓩爆弾を六発積めないかを検討した。

 しかし、簡単には許されなかったので、もっと銃撃を効果的にやろうということになり、敵の直上で垂直旋回をやって、旋回銃で集中銃撃をやる。 固定銃攻撃は、敵上空で失速反転をして深い角度で奇襲銃撃をする。 何れも、塹壕の中の凹凸と掩体を利用させない奇襲である。 この戦法は極めて効果的であったらしく、敵の反撃が少なくなった。
(続く)

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