2009年09月21日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その13

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 猪突猛進 (2)

 私達が進駐した飛行場は、上海市の北東区、日本、仏、英、米 (英米共同) の租界の北の外れの公大 (くんだ) 大学の校庭であった。 だから、公大飛行場と呼んだ。

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( 原著より  公大飛行場 )

 上海市は、黄浦江に臨む中国最大の商工業都市で、13世紀後半、支那 「宋」 の時代に開港した港である。

 日本との歴史的な縁故は、後述するとして、「蘇州夜曲」 に唄う 「君の御胸に抱かれて聞くは、夢の船歌恋の歌」 の描写は、上海の中央部を流れる蘇州河が、黄浦江に注ぐあたりで、戦前によく見かけた支那娘の情緒であった。

 その黄浦江は、地質時代の数百万年の間に、長江の河口一帯にできた大平原の中を、S字型に攣曲して流れる運河のような川である。 水源は、上海西方約60浬の太潮、及び上海南方百浬の淅(せき)江省の丘陵地帯に発している。

 川巾は上海附近で約9百米、水深は平均8、9米、流速は2、3ノット、常時殆ど満水状態で、潮汐作用があった。 堤防はなく、黄濁した水が、大平原の地平面より2、3米低く流れていた。

 川面はいつも波静かで、河岸に繋いだジャンクの帆柱の他は、視界を迷るものはなく、万古不易の悠然たる姿であった。 この河は、約10浬北流して長江に注いでいる。 公大飛行場は、この黄浦江の西岸に接していた。

 黄浦江の東岸、飛行場の川向う一帯を、浦東 (ぷーとん) 地区と言って、茫漠たる大平原が拡がり、耕作はあまり行なわれていなかった。 数浬おきに、4、5軒の農家があって、樟の大木が聳え、その周辺だけに畠があった。

 牛車が通った所が部落をつなぐ道路になるので、一雨毎に古い道路は消えて、別の新しい道路が、どこかにできるのであった。

 部落の近くには、縦横に、巾5米ばかりのクリーク (人工的支流) があって、両岸には柳の木が密生していた。 クリークは、所々で崩れた土手に堰き止められて、水は重く黒く淀んでいた。 この附近の大地は黒土であった。

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( 原著から  呉淞クリーク )

 飛行場と上海市とは、その名もゆかしい楊樹浦 (やんじっぽ) 通りで結ばれ、柳の並木が美しかった。 所々に、道路から奥深く、瀟洒な住宅があったが、私達の宿舎に当てられたのは、飛行場寄りで、黄浦江に近く、何の趣もない真四角な煉瓦造りの家であった。 公大大学の職員の公舎が利用されたのであった。

 この建物は、外見はヨーロッパ風で、壁と床は厚くガツチリしていたが、屋根は日本の昭和初期の様式で、赤い薄っぺらな日本瓦が葺かれていた。 各部屋には日本畳が敷かれ、安下宿の貸間のようであった。 地階に広い土間があって、その一隅に大きい竃があるのが、ただ一つの支那風であった。

 10坪ばかりの庭が玄関前にあって、コスモスがまだ沢山蕾をつけていたが、幹は倒れ葉先が枯れて、わびしそうであった。 隣に同じ家が2軒あって、そこにも幹部が分宿した。

 このほか、すぐ近くに20坪ばかりの支那家屋が十数軒、軒を連ね、そこに整備員達が分宿した。 支那家屋は、柱が太く短く、軒は低く、屋根は厚い板の上に、土室のように粘土をかぶせて、曲線の強い瓦を埋め込むように葺いてあった。 部屋は暗かったが、涼しく静かで、住み心地がよさそうであった。 これらの宿舎群から、狭い一車線道路が飛行場に通じていた。

 私と、同期生の小川正一中尉が3階の6畳に同居し、隣室に江草大尉が休んだ。 食事は、麦飯と卵、漬物、缶詰、味噌汁が定食で、時々牛乳の配給があった。

 老酒の大瓶と菊正宗の四斗樽が、土間の隅に積んであって、飲むことは自由であったが、晩酌は誰もやらず、雨が降ると皆で大酒盛りをやった。 私達は朝晩、この宿舎から飛行場に通った。

 飛行場着陸帯は、長さ6百米、巾約70米、両側が列線、その後方の、大学研究室、観測所等、煉瓦造りの建物を、警備員の宿舎と、整備員の待機所、兵器小出庫に使った。
(続く)

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