2009年09月19日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その11

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 三人の童子 (9)

 私は、そんな家でも、支那の訪問の礼式に従い門内には一歩も這入らず、手を打って来訪を告げた。 10分も待ったであろうか、突然、三郎が土塀の陰から現われた。 さっぱりした薄いパオを着ていた。

 私が、お土産として、缶詰、砂糖、塩等を渡そうとすると、私を門内に入れ、毀れた母屋の裏側の納屋の前まで案内した。 そして、重い扉を引き開けて土間に入り、初めて私の進物を受け取り、手を組んで深く敬礼した。

 納屋の構造は平屋で、日本の農家の土蔵を低くしたものを想像すればぴったりである。 土間は低く暗く広い。 一隅に3坪ばかりの高い床があって、板の間に藁の敷物が敷かれ、土格子の窓下に、小さい一枚板の机があるばかり、塵一つ落ちていないが、一個の家具もない。 水甕も竈も、炊事道具もない。

 私は三郎がどうして生活しているのか知りたかったが、三郎はそれを尋ねさせないだけの儀礼を行なっているので、質問するのを止めた。 しかし、別室があるようにも見えなかったので、心配でもあった。

 綺麗に掃除ができているとほめると、彼も何か挨拶した。 私が支那の古来の礼式どおりの作法を行ない、また、いかめしい剣帯をして長剣を持っていたので、彼は多分、父から教えられたとおりの作法を神妙に真似ているのだと思うと、一層いじらしかった。

 私は夕食を御馳走するから、太郎と次郎を連れて来るように言って、早々に引き揚げることにした。 納屋を出て、小雨の空を見上げると、母屋の屋根の、破壊からまぬがれた厚くて重々しい屋根土の中に、深く埋め込まれた濃緑色の瓦が、煙る雨にむせんでいた。

 三郎が私を迎えた態度は、落ち着いて悪びれず立派であったが、私が門を出ようとする時、小雨の中を雨具も着けず小走りに迫って来て、私が立ち止まると、私の軍服の上衣の裾を懸命に握った所作は、やはり幼く可愛い童子であった。 三郎の姓は、「劉氏」 であった。



 三人は立派な子供達であった。 親から教えられ、支那の社会から伝えられたことを、ただひたすらに正しいと信じ、堂々とそれを主張し、人を恐れなかった。 真実の勇気を、生まれながら身に付けた子供であった。

 平常時には、気品高く、誇りをもって友人、上司に接し、礼儀正しく、節度があった。 しかし、いざ火災の時は、全てをかなぐり捨てて仕事に全力を尽した。 犠牲と献身奉仕の深い本質を、生まれながらに知っている子供であった。 人の情をするどく感じ、恩を知り、人を慕い、人から愛される可愛い童子であった。

 艦爆隊員が、三人を尊敬し愛したことは、この上もない嬉しいことだと私は思った。 それは、艦爆隊員もこの子供達と同じように、立派な少年時代を過ごしたことを証明するものだからだ。

 私達は渤海湾口の哨戒作戦を最後に、上海方面に転進するため、九州大村に帰投することになり、8月31日、基地撤収準備を始めた。

 三人の童子は、淋しそうであった。 殊に、今まで一番しっかり者であった三郎の落胆の様子は、見るも哀れであった。

 出発の前日、三人に御馳走をしてやったが、彼等は喜ばなかった。 私は彼等三人に、それぞれ一年分に余る乾パンを謝礼として与えた。 湿気のない所に保存するよう、繰り返し繰り返し教えた。 一か月半の、侘びしい縁 (えにし) の最後であった。

 9月5日、出発の朝、私は三郎をしっかり抱き上げて、永遠の別れを告げた。 そして、三郎に 「早く大きくなれ」 と言った。 三人は泣いた。 それは、一か月半の間に一度も見せたことのない涙であった。

(第1話 終)

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