著 : 高橋 定 (海兵61期)
第1話 三人の童子 (9)
私は、そんな家でも、支那の訪問の礼式に従い門内には一歩も這入らず、手を打って来訪を告げた。 10分も待ったであろうか、突然、三郎が土塀の陰から現われた。 さっぱりした薄いパオを着ていた。
私が、お土産として、缶詰、砂糖、塩等を渡そうとすると、私を門内に入れ、毀れた母屋の裏側の納屋の前まで案内した。 そして、重い扉を引き開けて土間に入り、初めて私の進物を受け取り、手を組んで深く敬礼した。
納屋の構造は平屋で、日本の農家の土蔵を低くしたものを想像すればぴったりである。 土間は低く暗く広い。 一隅に3坪ばかりの高い床があって、板の間に藁の敷物が敷かれ、土格子の窓下に、小さい一枚板の机があるばかり、塵一つ落ちていないが、一個の家具もない。 水甕も竈も、炊事道具もない。
私は三郎がどうして生活しているのか知りたかったが、三郎はそれを尋ねさせないだけの儀礼を行なっているので、質問するのを止めた。 しかし、別室があるようにも見えなかったので、心配でもあった。
綺麗に掃除ができているとほめると、彼も何か挨拶した。 私が支那の古来の礼式どおりの作法を行ない、また、いかめしい剣帯をして長剣を持っていたので、彼は多分、父から教えられたとおりの作法を神妙に真似ているのだと思うと、一層いじらしかった。
私は夕食を御馳走するから、太郎と次郎を連れて来るように言って、早々に引き揚げることにした。 納屋を出て、小雨の空を見上げると、母屋の屋根の、破壊からまぬがれた厚くて重々しい屋根土の中に、深く埋め込まれた濃緑色の瓦が、煙る雨にむせんでいた。
三郎が私を迎えた態度は、落ち着いて悪びれず立派であったが、私が門を出ようとする時、小雨の中を雨具も着けず小走りに迫って来て、私が立ち止まると、私の軍服の上衣の裾を懸命に握った所作は、やはり幼く可愛い童子であった。 三郎の姓は、「劉氏」 であった。
三人は立派な子供達であった。 親から教えられ、支那の社会から伝えられたことを、ただひたすらに正しいと信じ、堂々とそれを主張し、人を恐れなかった。 真実の勇気を、生まれながら身に付けた子供であった。
平常時には、気品高く、誇りをもって友人、上司に接し、礼儀正しく、節度があった。 しかし、いざ火災の時は、全てをかなぐり捨てて仕事に全力を尽した。 犠牲と献身奉仕の深い本質を、生まれながらに知っている子供であった。 人の情をするどく感じ、恩を知り、人を慕い、人から愛される可愛い童子であった。
艦爆隊員が、三人を尊敬し愛したことは、この上もない嬉しいことだと私は思った。 それは、艦爆隊員もこの子供達と同じように、立派な少年時代を過ごしたことを証明するものだからだ。
私達は渤海湾口の哨戒作戦を最後に、上海方面に転進するため、九州大村に帰投することになり、8月31日、基地撤収準備を始めた。
三人の童子は、淋しそうであった。 殊に、今まで一番しっかり者であった三郎の落胆の様子は、見るも哀れであった。
出発の前日、三人に御馳走をしてやったが、彼等は喜ばなかった。 私は彼等三人に、それぞれ一年分に余る乾パンを謝礼として与えた。 湿気のない所に保存するよう、繰り返し繰り返し教えた。 一か月半の、侘びしい縁 (えにし) の最後であった。
9月5日、出発の朝、私は三郎をしっかり抱き上げて、永遠の別れを告げた。 そして、三郎に 「早く大きくなれ」 と言った。 三人は泣いた。 それは、一か月半の間に一度も見せたことのない涙であった。
(第1話 終)
時には時間を忘れ夜中の1時過ぎまで読んだこともあります。
これだけのものを一人で書いて(編集して)おられることにびっくりしています。
・・・・感謝
海上自衛隊はどこも目先のことに忙しというのが本音であり、建て前でもありますので、過去のこと、特に旧海軍の良き伝統や貴重な体験談などのことまでは手が回らない、というか関心が無いようです。
海上自衛隊部内には、本ブログや本家サイトでご紹介しているようなことなど沢山良いものがあるのですが、部内誌などで一度掲載された以降はまず二度と出てきませんし、資料なども今となってはどこにどれだけ残っているのか。
既に破棄してしまって、もう海上自衛隊には残されていない貴重なものもいくつか確認しています。
そして、一般の方々でも興味のあることは沢山あったのですが ・・・・
私の手元に残してあるものはそれらの内のほんのわずかですが、これらが忘れ去れないように、そして少しでも若い後輩達や後世の人達に伝えられたらと思っています。
引き続きのご愛顧をよろしくお願いいたします。