2009年09月10日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その10

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 三人の童子 (8)

 8月下旬、私達は、遼東半島と山東半島の最も狭い場所を哨戒することになった。 この渤海湾口は、旅順と山東半島北岸の登州を結ぶ線上の旅順寄りに点々と浅瀬がある。

 7世紀(607年)以前の日本の遣支使節団は、天候不良の時、或いは風待ちをする時に、この浅瀬に石製の錨を入れて天候の回復を待った。 時には夜間、この浅瀬に沿って測深しながら航海を続けることもあった。 日本最古の外交航路である。

 聖徳太子が、「日本の大王は、天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」 と言って、「天の子」 を呼称する支那の皇帝に、堂々の外交を展開した時の使者、小野妹子 (支那での呼名蘇因高) が、生命を賭けて隋の国情の偵察に赴いたのは、今飛んでいる湾口哨戒線の直下であり、1337年前の夏のことだった。 私は、小野妹子はこの時どんな思いであったかと考えながら飛んだ。

 海は濁り、見渡す限り、海上は極めて殺風景であった。 機雷は相変らず発見できなかった。 戦果は無く功績は零であったが、私の今の心境は悠々と作戦を達観視する境地を悟るために、支那人をよく観察することが最も大切なことだと思っていた。

 日本の隣に、支那という国があり、漢民族が住んでいる限り、日本人にはそれが必要なことだと思ったのだ。

 例えば、三郎は、椅子、食卓をよく拭く習慣があった。 しかし、彼の家では、乾いた絹布で家具を磨くが、濡れた雑巾で拭くことはしなかったらしく、雑巾を綺麗にすすぐことを知らない。 彼が机を拭くと机が汚れた。

 そんな時に、太郎次郎も呼んで、三人一緒にしてそれを教えようとすると、三郎はソッポを向いて一切耳をかさない。

 それは、面子を重んずる習性でもあろうが、それよりも、人それぞれの仕事を、自分の直接の上司 (従兵) 以外のどんな人にも批判させず、人に犯されず、自分の仕事は上司と自分の関係だけでやりたい、と主張している姿のようであった。

 或る雨の日、私は三郎の家を訪問した。 以前に三人の子供の身の上を教えてくれた老婆に、米麦を三升与えて、教えしぶるのを説き伏せ、無理に彼の家の門前まで案内させたのであった。

 三郎の家は、千坪以上もある堂々たる屋敷であった。 2米以上の高い土塀を廻らし、寺院の山門のような、巾二間の門があった。

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( 原著より )

 しかし、扉は破壊され、母屋まで見透しになっていた。 門瓦は殆ど剥がれ、玄関、居間、奥間、客間、厨房等の内部は完全に毀され、家具の破片が散乱し、玄関前の椿に似た老木だけが、主人なき廃屋を見守っていた。

( 続く )

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