2009年09月09日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その9

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 三人の童子 (7)

 8月15日頃であった。 隣の戦闘機隊で試運転中、バックファイヤーが列線の手洗い用のガソリンに燃え移り、それが燃料搭載中の2本のドラム缶に燃え移った。

 戦闘機隊は即刻全機着陸帯の反対側に地上滑走で逃れた。 艦爆隊は全員で飛行機を押して火から離し、エンジンを始動して飛行場のエンドに逃した。

 30瓩、60瓩の爆弾は、元気な若者達が背負って走った。 250瓩弾は簡単に運べないので、側溝の中に転がして土をかぶせた。

 天幕を倒して、列線のガソリンの滲み込んだ地面に広げ、放水車で水を撒いた。 今までの列線は泥のぬかるみになった。

 初期防火用の炭酸ガス放射器全部を、燃料ドラム躍置場の周辺に待機させて延焼に備え、他の者は爆弾から遠ざけ、民家の裏側に退避させた。 火災は類焼しなかったが、黒煙が天に沖し、大火災のように見えた。

 延焼の恐れが全く無くなった時、三人の子供を捜させた。 三人は民家の土塀の陰に隠れていたが、自分に貰った木箱と食器と雑巾を大切に守っていた。

 従兵の語ったところによると、火災が起きて、天幕が倒され、撒水でそこが泥海になると、5歳の三郎が6歳7歳の太郎と次郎を指揮して、野球庭球のボール、空気入れ、碁石、靴等の小物を懸命になって民家の土壁の陰に運んだ。 延焼の恐れがなくなっても、それを続けた。 運動靴が左右揃わないので、泥の中を捜した。
 常日頃、三郎は隊員達の靴には絶対に手を触れず、飛行靴の手入れは断固として拒否するので、仕方なしに太郎と次郎にやらせたのであったが、この時の三郎は、汚れた靴を拾い、便所の塵紙までも運んだ。 彼はその作業中に、隊員と衝突して泥の中に転び頭に怪我をしたが、泣かずに頑張ったという。

 私は、この三郎という5歳の童子を、恐ろしい子供だと思った。 常日頃彼は、

「 戦争は仕方がない。 日本人と支那人が、この戦争で幾万人死のうと、それは支那四億の民には関係ない。 どちらが勝っても敗けてもかまわない。 私は生きるために懸命になっている。 ただそれだけだ。」

 と私に語りかけているように思えて仕方がなかったが、火災に当っては更に恐ろしい力を見せたのであった。

 三郎は、取り払われた天幕の下に、人間の生活のために価値のある雑多な品々が、泥にまみれ、人に踏まれ、無惨に失われていく姿を見た。 そして一方では、強い体力と敏捷な行動を必要とする火災現場の姿を見て、幼いながらも小物を運ぶのが分相応の仕事だと考え、敢然として行動した。

 そこには、功名心も、見得も、衒(てら)いもなく、支那人が永い歴史の中で体得した本能的知恵が燦然と輝いているのであった。

 このような大きい知恵は、なかなか身に付かないものだ。 つまり、急速に流れる時間的要素の中で、今何をなすべきかを、判断し、行動し、成果を見て次の行動に移り、再び、判断、行動を繰り返す。 過ぎた時間は返らない。 後の判断に価値はない。 航空安全の核心とも言うべき知恵と通ずるものであるが、火災に臨んで、三郎はそれを私達に示したのであった。

 火災は消えた。 飛行機は無事であった。 天幕は汚れただけだった。 運動用具、手回り品等は、三人のおかげで無事であった。

( 続く )

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