2009年09月07日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その7

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 三人の童子 (5)

 7月24日、遼河の河口を哨戒した。 この遼河は、歴史的に見て、漢民族、北方民族、朝鮮民族等の実質的国境であった。

 漢王朝は、紀元前3世紀の初頭以来、遼河を越えて朝鮮を支配したが、漠が衰えた時、北方鮮卑が逆に遼河を西に越えて中国に侵入し、その機会に朝鮮民族は独立し、日本は半島に進出した。 紀元313年頃であった。

 日本はその時、弁韓の地に拠って、現在の南鮮の約5分の2を領有して任那国を立てた。 応神・仁徳朝の頃である。

 7世紀後半になって、強力になった唐は、遼河を東に越えて日本を半島から追い落とし、朝鮮を支配した。 その後、宗、元、明、清、朝鮮、日本は闘争を繰り返し、遼河を、或いは西に、或いは東に越えた。

 それは悠々2300年間に、十数往復 (付表参照) に及ぶ支配の転換であった。 今、私達日韓両民族は、昭和7年以降、大陸侵攻作戦を行なって遼河を西に越えている。

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( 原著より  遼東支配の変遷 )

     ( 原注1 : 日支事変は18回目の民族の抗争と考える。)
     ( 原注2 : 「……→」は支配者の支配権が自然消滅的な場合を示す。)

 私は、ずいぶん遠い昔からの繰り返しだ、と思いながら、海か河か解らない黄灰色の河口に目を凝らした。 機雷は見つからなかった。 しかし、それはどうでもよかった。 日本の飛行機が悠々と渤海湾の上空を飛ぶことに意味があると思った。

 3日経てば、機雷は太平洋の彼方に流れるのだ。 見えないものは見つからない。 こんな日の陰気な朝、三人の子供達を飛行場の裏門で見たのであった。



 彼らは孤児であった。 事変が起こると同時に、日本人に雇傭されていた中国人労働者のボス達は、漠肝と呼ばれ、国家に仇をする非国民ときめつけられ、テロに襲われた。 三人の子供の親達は、そのため、七月初旬、どこかへ連行された。

 残された三人は、両親達が勤めていた飛行場に来て親を捜した。 しかし、そこには日本人ばかりで両親はいなかった。 三人の子供は途方に暮れたが、彼らは強靭な生活の知恵を身につけていた。

 子供達は隣人にも知らせない食物の隠し場所が、自分の家の床下か土壁の中に塗り込めてあることを知っていた。 彼らはそこから、米の粉、麦の粉を取り出し、それを練って油でいためて食べた。

 余ったものを十日もかかって乾燥し、着物の前身頃の縁を折って作ったポケット (和服の身上げ) に入れて隠し、いつも持ち歩いた。 家から離れる時は、それを食べて最低限の生命をつないだ。

 それによって飛行場を毎日隈なく捜し、両親を求め歩くことができた。 三人は兄弟ではなかった。 以上が、隣家に住んでいた老婆から聞き得た三人の子供の身の上であった。

 私達の作戦は、相変らず機雷哨戒を続けていた。 しかし、機雷は、多分この子供達の両親と同じように、黄海の波間に漂い流れているのであろう。 私達の目には入らなかった。 戦果はなく、功績は零であったが、一人として不平を言う者もなく、朗らかに、バレーや野球をやり、賞品の酒を分ち合って飲んだ。

 その後、夕刻にも裏門で子供達を見かけるようになった。 彼らのやっているゲームには、携行糧食が賭けられるようになった。 一勝負毎にドンベーのような乾麺をやりとりしているようであった。

 彼らの食料のストックが少なくなったので、三人の間に争奪戦が行なわれるようになったのではなかろうか、と心配になった。 しかし、それは彼らの判断で、最も合理的な食料の再配分の方法であったのかも知れない。

( 続く )

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