2009年09月06日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その6

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 三人の童子 (4)

 午後、隊長が、3機を率いて哨戒されることになった。 搭乗員、整備員全員が指揮所に集まって、作戦計画を聞いた時、全員の顔に明らかな失望の色があった。

「 機雷は銃撃しても爆発しない。 爆撃照準器では見えない。 攻撃のしょうがない。 駆逐艦にやってもらうことはできないのか?」

「 俺たちは急降下部隊の搭乗員だ。 浮遊機雷攻撃は荷が軽すぎる。 相手にとって不足のない奴はいないのか。」

 隊員達の目は、このように語っていた。 私もそう思った。

 隊長は、艦爆隊の育ての親、江草隆繁大尉であったが、出発直前に、改めて総員集合を命じ訓示された。

「 この作戦は、地味だけれども極めて大切な仕事だと思う。 俺はこの作戦をいつまででも続けるつもりだ。 今日は手始めだから俺が行く。 残った者は、バレーボールの試合をやって遊んでおれ。」 

 昨夜も爛のついたようなビールを飲んで、苦くてまずくて、不輸快な気分であったが、この作戦は燗ビールよりもまずそうであった。

 この日の作戦は、3機の哨戒だけで終った。 その晩、隊長は次のような話をした。

「 戦争になったら、金鵄勲章を貰わなければ軍人ではないと思っている人がいる。 何を措いても早く戦場に出て、功名を稼ごうという似非軍人だ。 俺達は手柄を樹てるのが目的でここに来たのじゃない。」

「 周水子に急速展開した理由は、第一に、北京山東の敵航空部隊の蠢動を押えることだ。 これはいい。」

「 第二は、言いたくないが、陸軍と海軍の先陣争いだ。 先陣争いと言えば聞こえはいいが、陸海軍の功績の分配を適切に行なおうとする配慮なんだ。 これは嫌だ。 そんな配慮はしてもらいたくない。 支那との戦いはよく解らんが、とにかく、落ち着いてよく考えて戦いたい。」

と。

 私は隊長の意見に全く賛成であったが、戦争とはそんなものかとがっかりする思いだった。

 翌日も哨戒だけであった。 私は3機を連れて黄色い海の上を飛んだ。 北京、天津、保定の飛行場攻撃のことは念頭から薄らいでいった。

 そして、9世紀初頭、弘法大師空海が、支那留学中に訪問した保定はどんな所であろうか。 唐代の密教、日本の真言密教の元祖は、どんな教えだろうかなどと考える時が多くなった。 隊員達にも、そんな話をした。

( 続く )

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