2009年09月04日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その4

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 三人の童子 (2)

 番兵塔から部落寄りに3百米ばかり行った右手道路添いに、20米ばかりの小高い丘があって、その上にフランス風の赤い煉瓦造りの三階建ての瀟酒な別荘がある。 建坪120、30はあろうか。 飛行隊指揮所から自動車で3分の距離にあり、私達の宿舎に当てられ、私達はここから朝晩、飛行場に通う。

 この宿舎から南西方の飛行場を見ると、南縁部に九四式艦爆18機が、着陸帯に向かって並び、その延長線上に九六式艦戦18機が翼を接して一直線に続いている。 艦爆列線の直ぐ後方に、250瓩 (キロ)、60瓩、30瓩の爆弾が数百個雑然と転がしてある。

 列線の中央部の20米ばかり後方に、天幕が5張り並び、中央が士官室になっている。 暑いので側幕は巻き上げられ、内部はまる見えだ。 ケンバスの折椅子が5、6脚、他に食卓と小さい黒板が置いてある。

 両側の下士官の天幕には、木製の長い腰掛けと仮製ベッドが2、3台置かれ、藍色の蚊帳が吊ってある。 昨夜の当直員が仮眠しているのであろう。

 ランウェイは飛行機の車輪で踏み固められ、所々に株の大きい雑草がある。

 飛行場の遥か彼方を眺めると、南北両側は黄褐色に濁った海。 空はどんよりと鉛色に曇り、水平線は子供が描いた絵のように、黒く太い一線で区切られている。

 北東方向は市街地になっていて、灰色の低い民家の彼方に、遠く遼東の山塊が、ゆるやかな稜線を見せている。 これも灰色一色である。

 西方は旅順港周辺の丘陵地帯で、ここにも樹木はあまり見当らない。 夏雲が南東風に乗って、遼東の山塊の上に乱れているばかり、総てが単一色の、不変悠久の姿で、日本的風情はない。

 私たちがこの宿舎に寝泊りするようになったのは、昭和12年7月12日からであった。 そして、三人の子供達に会ったのは、それから10日ばかり後のことだった。



 昭和12年7月7日、満州蘆溝橋で日中両軍が衝突してから4日目に、第十二航空隊が佐伯で編成され、飛行隊は翌12日、佐伯を出発し、京城錦浦飛行場を経由して即日周水子に到着した。

 整備員達は、ダグラスに乗って飛行隊に続いた。 当時は、大連、旅順は日本内地と同様であったので、急速移動は簡単であったが、やはり、疾風迅雷の出撃と言ってよいであろう。 食料、燃料、弾薬の着岸補給は、佐世保鎮守府が手配したと思う。 万事が円滑に運ばれた。

 私達は、着陸と同時に基地設営に取りかかった。 燃料ドラム缶置場は、排水に注意して側溝を掘り、列線との間に土塁を築いた。 搭乗員、整備員等の待機所、指揮所は、小高い場所を選んで天幕を張った。 火工品置場だけは、土塁で囲んだ。

 隊員宿舎は全員飛行場の周辺部の民家を使用し、電燈は使わず、燈火管制を厳重に行ない、照明は総てローソクにしたので、宿舎の設営は、毛布と蚊帳とローソクを運搬することで済んだ。 烹炊は既に準備されていた。 陸軍式の野戦用の竃が十数個宿舎の裏側に並び、2、3の民家が食糧倉庫になった。 庭には石炭の小山ができた。

( 続く )
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/31860973
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック