著 : 高橋 定 (海兵61期)
はじめに (承前)
昭和15年、南支の柳州攻略作戦の始まる直前、海南島の北西約五十浬のい洲島 (「い」の字は「さんずい」に「圍」) という小さい島にいた時のことだ。

(元図 : Google Map より )
私は、中国人散髪屋の助手に劇薬を盛られて殺されそうになったことがある。 怒った私の部下達は島の部落に乗り込んで、部落民を女子供にいたるまで調査した。

( 原著より )
一人の老婆とその息子が怪しいことが解ったが、その婆さんは歯に 「おはぐろ」 をした上品で小柄の人だった。 息子は目の綺麗な日本人とそっくりの若者だった。 日本の着物を着せたら、誰も日本人と思うような老母と息子である。
尋問しているうちに、私達の激しい怒りは段々に冷めてしまった。 私は相手を放免して部下を連れて引き揚げた。 部下の中には、帰る時に航空食のキャラメルを与える者もあった。 その少年が弟のように思えたのであろう。
この二つの事件を対比してもらいたい。
両国民が武器を持って接触する第一線でも、四六時中弾を射ち合っているのではなく、憂いを含んだ中国娘の視線や、つぶらな瞳で私達を見つめる弁髪の童子にも会うのである。 そんな時、中国娘や童子の親達には暴力はふるえなかった。
一方、金髪娘や髭婆婆(ひげばばあ)の偉張った面を見ると、初めっから向っ腹が立った。 不合理ではあるが横面の一つもブン殴りたくなったものだ。
私はこのことを言っておきたいのである。
言うまでもなく、私らは日清戦争以来の日中の裏面史を知っていたから、日本が軍国主義一点張りの国家だなどとは考えなかったし、中国が被侵略国だとは断定していなかった。
むしろ、中国に対しては日本を呑み込む大蛇のような恐れを持っていたので、中国と戦うことに雑念はなかったが、隣の小母さんのような中国人に面と向かうと、どうにも憎めないのであった。
このことは、中国は心底から憎み得ない要素を潜在させながら戦った相手国であったということである。 悲しい宿命の戦いであったと思う。

( 原著より 若かりし日の著者 )
以下の拙文の中には、そんな感傷が出てくると思うが、若い時のことだから割り引きしてお読み頂きたい。