2009年09月01日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その1

著 : 高橋 定 (海兵61期)

第2章 日中戦争時代

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( 原著より )

  はじめに

 昭和10年2月初旬、生まれて初めて三式初歩練習機に乗った。 僅か1週間の適性検査と体験飛行であったが、霞浦飛行場を飛び立ち、西に富士山、東に筑波山を眺め、青く澄んだ大空を仰ぎ清らかを空気を胸一杯に吸って、21歳の青春の多感に酔った。

 当時の日記には、無限の可能性を大空に見つめたとか、広大無辺の天地に溶け込む喜びを感じたと書き綴っている。 行く雲や筑波颪(おろし)に棚引く灌木の梢、広漠たる草原を見て涙を流す青少年の感傷であった。

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( 三式陸上初歩練習機 )

 今64歳の老人になって、この航空へのスタートの日の感傷を想うと、初恋の想い出よりも、もっと甘く酸っぱく懐かしい。 以来11年間、海軍のパイロットとして生き続けたが、戦前のことはただ楽しかったということに尽きる。

 昭和12年7月、戦争が勃発すると、青年の感傷は跡形もなく消え、日本の国家目的に従って勇躍して戦場に行った。 12年7月遼東半島旅順周水子、同年9月中支・上海南京方面、14年航空母艦 「龍驤」 で中南支沿岸、15年南支仏印方面に行動した。

 戦争は8年1か月続いたが、前半の四年余は中国一国が相手だった。 しかし、国家戦略的には、この時既に連合国側も殆ど敵国であって、米英は後方補給と自国兵器の実験及び情報の提供収集を行なっていた。 ドイツも中国に兵器を売る敵性国であった。

 私らはこれ等の諸外国のことは考えず、ただ一途に中国本土を席巻して一日も早く城下の誓いをなさしめ、平和が再び回復されることだけを願って戦った。

 ここで特に申し述べておきたいことがある。 それは、中国との戦争は対米英戦争とは本質的な相違があったということだ。

 同文同色の漢民族や、同種同色の満州民族、南寧蛮族、安南民族等との戦いは、異色異種異文化のアングロサクソン民族との戦いとは形而上で大きな差があった。 詳しくは後述するが、一例を挙げておこう。

 ボルネオのバンジェルマシンに零戦部隊が進出してB24を撃墜し、搭乗員を捕虜にして士官室に連れて来させたことがあった。

 捕虜の一人が屈託のない明るい顔で手を差し出して、「ハロー」 と言った時、側の椅子に腰掛けていた零戦パイロットはいきなり立ち上がって、その毛唐の手を払いのけ彼の横っ面を思いきりブン殴った。 捕虜達は青くなって体を固くした。

 零戦パイロットにとっては、捕虜になって元気で生きている毛唐が癪にさわったのである。 先刻まで憎み合って死闘した相手だからだ。 勝敗は時の運だから、後は仲良くしようというスポーツなんかとは同日の論ではない。 心の底から彼らを憎む理由があって、乾坤一擲の戦いを始めたのだ。 簡単に恨みが消えるものではなかったのである。

( 続く )

この記事へのコメント
>「戦前のことはただ楽しかったということに尽きる。」
戦前の回想で「楽しかった」「良かった」と言う人は多いですね。いろいろあっても良い組織だったのでしょう。
Posted by 出沼ひさし at 2009年09月01日 20:49
出沼ひさしさん

 海軍の部隊では、寝食どころか生死を共にして日々生活しますので、裸の付き合いというか、互いに自分自身をさらけ出しての日々になります。 そこでは繕いや見かけは通用しませんから。
 人間同士ですから、個人個人としては合う合わないは当然ありますが、組織としてはまさに “男の世界” そのもので。
 ですから戦争さえなければ、ですね。
Posted by 桜と錨 at 2009年09月01日 23:42
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