2009年08月27日

『飛翔雲』 第1章 揺藍時代 −その4

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 計器飛行の発明

 昭和初年、横須賀航空隊の偵察教官に岡村徳長大尉がいた。 この人が日本海軍航空の計器飛行の草分けとなった人である。

( 注 : 皆さんご存じとは思いますが、本話の主人公 岡村徳長氏は第1話で出てきた岡村基春氏の実兄であり、また末妹 清子氏の夫が、後でこの回想録でも出てきます艦爆の神様 江草隆繁氏という関係にあります。)

 岡村徳長という人は日本海軍の代表的奇人といわれたが、この人の伝記を書くわけではないから詳細は略するが、例えば、横須賀線逗子駅に乗降される貴賓の中で逗子駅長の出迎えと見送りを受ける人は、天皇陛下と岡村徳長だけだと言われた程の人であった。

 彼は、大正末年の秋、迫浜から九州宮崎へ水上機で移動訓練をした。 無事宮崎海岸に着いて、飛行機を海岸に係留して全員料理屋に行って飲んだ。

 夜中に風浪が烈しくなり飛行機は流された。 翌朝、海岸に行ってみると飛行機がいない。 彼は懲罰一週間になった。

 しかし、一日謹慎しただけで海軍省人事局に出頭して、懲罰一週間を二日間に負けてくれと申し入れた。 彼の主張するところは、

「 自分は間違っていた。 一日謹慎してみてよく解った。 今後反省する。 しかし、忙しい毎日の訓練を一週間休むわけにはいかん。 明日から訓練をしたいから懲罰は今日までで負けてくれ。」

 というのである。

 海軍省はビックリした。 20万海軍だから奇人もいたろう。 しかし、懲罰を負けてくれという男は彼が初めてであった。 ビックリした海軍省も、彼の主張するところには一理があると考えた。 そして、彼の熱意に動かされて懲罰を三日に負けてやった。 三日だ二日だと押し問答があった末に海軍省は、

「 君は本日は謹慎していないではないか。」

 というわけで、実質二日、形式三日ということで話がついた。

 この岡村教官が、雨霧の中でも暗夜でも安全に飛ぶ方法はないものかと考えた。

 その時の機材は一三式艦上攻撃機であった。 計器は、気速計、回転計、高度計、旋回計があったが、高度計目盛は100m単位であり、旋回計はまだジャイロが機上に装備されていない時代であるから針のない旋回計である。 現在の旋回計の鉄球の代りに気泡が入っていて、ガラス管の円弧の長さが30センチくらいある大工道具の水準器を曲げたようなものであった。 飛行機の性能は全速105節、巡航80節で、舵の効きはよく安定した飛行機であった。

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( 一三式艦上攻撃機 )


 余談になるが、昭和11年、私はこの実用練習機で編隊訓練中、(二番機操縦) 一番機に近接して行って一番機の上翼の先端を私の下翼の尖端で叩いてみようと試みたことがある。

 一番機が恐がって逃げるのでどうしても果たさなかった。 その時の一番機のパイロットは、東京高等商船出身の岡純少尉であった。 以後、岡少尉は私のような向こう見ずの男とは編隊訓練はやらないと言って敬遠されたが、おかげで私も彼も命拾いをしたのかも知れない。 知らないからあんな乱暴をしたのであるが、編隊飛行は簡単なようで危険なものだ。 注意を要する。
(第3話 続く)

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