2009年08月25日

『飛翔雲』 第1章 揺藍時代 −その2

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 スピン事件

「死ぬだろうなあ!」
「死ぬ筈はないじゃないか! 32節(ノット)だよ。」
「死ぬに決まっている!」
「死ぬ筈はないっ!」

 時は昭和3年10月、場所は土浦市南方の阿見原、二人の操縦教官、岡村中尉と楠本中尉が喧嘩を始めた。

 阿見原というのは、その当時の 「飛行節」 という歌に、

「 今日ベルリンの郊外で
     ミュンヘンビールに酔い伏すも
 一度ハンドル手に持たば
     夕べにゃ既に阿見が原 」

 とよく唄われた阿見原である。

 大正8年日本海軍が買収し、同10年練習航空隊として開設した日本海軍練習航空隊発祥の地である。 舗装滑走路はない。 格納庫の前で飛行機を洗うためにそこが泥んこになるのでそこだけが舗装され、その他は簡単に鎮圧された広漠たる草原であった。 この草原の周辺は松と栗の灌木林になっていて兎や狐が多く、時々格納庫に遊びに来ることがあった。

 二人の中尉の喧嘩の種は、一三式初歩陸上練習機でこの灌木林の中にスピンで墜落したら、搭乗員は死ぬか死なぬかという論争であった。

 詳しく言えば、一三式初練の失速は32節であるから、16米/秒で地面灌木林に激突する。 火が出る。 搭乗員が急いで脱出する。 ガソリンが爆発する。 搭乗員はその被害圏外に逃げ得るか?

 搭乗員が学生の場合は脱出が下手だし、機体の毀れ方もひどく、脱出が難しくなることもあるだろう。 学生の生命は果して保証できるかどうかという論争であった。

 この二人の論争の結論は、その日の午後に出された。 岡村中尉が初練試飛行中に灌木林中にスピンで墜落してみせたのである。 彼は操縦席から這い出し、独りで飛行場まで帰って来て、

「俺は死ななかった。 怪我もしていないぞ。」

 と怒鳴った。

 その日の夕方、土浦市桜川の堤防下にある小料亭 「梅ヶ家」 で、隊長と二人の中尉がS (注 : 海軍の隠語で 「芸者」 のこと) に囲まれて飲んでいた。

「 クンルン アルタイ 下駄に履き
 北シベリアを過ぎ行けば・・・・ 」

 と蛮声を上げてご機嫌であった。


 昭和12年、私は岡村基春中尉 (この時中佐になっていた) に仕えたので質問した。

「そんな実験を隊長が許してくれたのですか。 教官が教官なら隊長も隊長だっ!」

 答が跳ね返ってきた。

「馬鹿者っ! 実験じゃないっ。 航空事故だっ!」

 これがスピン事件の顛末である。 教官が懲罰になったか表彰されたか聞くのを忘れたのは残念だった。

 もし仮に、この実験で岡村教官が殉職していたら、岡村中尉の操縦ミスによるスピン墜落事故の記録だけが残され、飛行学生の単独許可の時機は決まらなかったであろう。

 成功したから、学生の単独許可は9時間を標準とされたのであった。 そして、この事件の8年後の昭和11年、私達の単独許可も9時間が標準であった。
(第1話 終)
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