2009年08月09日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その9)

著 : 森 栄(海兵63期)

 停年退職の日も間近と迫ってきたが、海外移住者としての限度は、どうみても50歳1佐ぐらいであった。 また親しい友人は、政情不安とインフレとの理由で移住を見合わせてはと忠告してくれる者もいたが、私の部隊は既に長男の出発によってBR作戦を発動していたのであった。

 39年12月停年退職し、神田の村田簿記昼間3箇月速成科を終え、約100個の荷物を造りつつある時、第2次先発隊の次男が5月出発。

 残りは母・家内・娘3人の女性群5名を私が連れてゆく最終の段階になり、40年6月2日海上自衛隊、海軍などの知人多数の見送りを受け、海幹校職員より頂いた小型軍艦旗を振りながら 「さくら丸」 によって横浜を出帆した。

 翌日早速船内会議で、約300名の世話人会長に選挙され、家内と楽しみにしていた結婚25周年記念旅行の計画は一挙に吹き飛んでしまったが、大学生を中心とする約30名の青年隊の協力は頼もしいものであった。

 ハワイ北方洋上よりハワイ知人数名に電報を打ったが、その電報料の高いことに驚く。 次いで2回目のロスを見て、3回目のパナマを通り、7月7日リオにて退船。 ここに久しく夢にみたブラジル大陸に第一歩を印し、私は戦後最高の喜びを感じた。

 爾来12年、近眼鏡で見れば少しは辛く、やるせないこともあったが、遠眼鏡で見るならば、全てが家庭、我が民族の永遠性に繋がるものであり、また広大な新天地と豊かな資源に繋がるもの、ひいては日伯親善の架け橋に繋がるものばかりであって、私はこの現在の幸福さを諸君にお伝えする術を知らない。

 しかし私が着伯後歩いてきた道は全て都会地の事務屋の月給取りで、これは第1線移住者の実態からはるかに遠くかけ離れている。 在伯4、50年という人はもちろん、戦後移住の在伯20年という人の苦心談を聞いてみても、当時はそんな職業はなかったという。

 私などはいわば最も弱々しき移住者として生存していることを知るのであって、私のような者が今日ブラジルで生活できているということは、取りもなおさず、70年の歴史のうちに、70万と称せられるまでに発展している在伯日系同胞の、血と汗と涙によって築きあげられた社会基盤の上に立っているからであり、最近ここ数年の間に急速な進出を成し遂げた多くの企業も、また同様の恩恵を受けているようである。
(続く)
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