2009年08月08日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その8)

著 : 森 栄(海兵63期)

 「もみ」艦長1年の後、国産第2号艦「はるかぜ」艦長を命ぜられたが、これを1年やった頃戦後初の遠洋航海がハワイまで行われることになった。

 私は同地は既に2回も行っていたので、有為の後進に譲るつもりであったが、都合により遠航終了まで旗艦々長を勤めることになった。

 国産艦「はるかぜ」は私が第3代目(?)艦長であったから、その擦り合わせ運転も一通り終わっていて、他のPF3隻とともに総航程8,000マイルの旅にも不安はなかった。

 そしてまた戦争中の夢が醒めていない私にとって、「この行動には敵がいない」 ということが、何よりも気楽であった。

 ハワイでは知人と再会し、私の海外移住計画も打診して見たところ、

 「自分達も同感だ。 ハワイの子供達も皆アメリカ本国に行ってしまって、ハワイには老夫婦しか残っていない。 やはり若い者には広大な天地がいる。」

 という。 アメリカ青年にして尚かつしかり、まして日本青年においておや、と思った。

 そして最高に嬉しかったことは、海上自衛隊が一旦外国に出ると 「日本海軍」 として遇せられることであった。 祖国では辱められ、外国では礼遇せられるということは、祖国の為政者の怠慢でなくて何であろうか、とも思った。

 大任を果たして帰国し、任務報告の関連所見の一項として提出されたものが、練習艦建造に関する初の所見でもあった。

 終わって呉の第2警戒隊司令となり、LS艇4隻をつれて毎週のように内海を行動しているうち、「高血圧症につき海上勤務不適」 の烙印をおされ、戦史室の編纂官に任ぜられた。

 戦史室では、自分の従軍した時と海域に関する戦史でも書くのかと思ったら、全く関係もない時と海域の編纂を命ぜられ、護衛作戦については参考人兼証人であったが、数少ない編纂官で厖大な量の戦史を編纂するためには、真に止むを得なかった配員であったろう。

 この頃海外移住はいよいよ本格化してきて、広報も盛んになり、私達の移住先をアルゼンチンからブラジルに変更し、最初の葡語事典を求めたのが34年12月であった。

 戦史室の3年4箇月終わって幹部学校の研究部員 (NCS (注) 担当) を命ぜられたが、これは護衛との関連もあり興味深い問題であった。

(注) : NCSは 「Naval Control of Shipping」 の略で、通常 「船舶運航軍事統制」 と訳しています。 内容については別の機会に。


 この頃長男が大学 (工業化学) を出て、第1次先発隊として祖国を出発した。 そして長男からくる肉親の文通は、最も信頼度の高い情報源となった。
(続く)

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